0161.議員と外交官◇
「陛下のご厚意、大変、有難く存じます。しかし……その……」
ラクエウス議員は、隣国の駐ネモラリス大使を前にして額の汗を拭った。冷や汗が止まらない。
ラクリマリス王国の大使ザトヴォールは、力なき陸の民の老議員に冷ややかな眼差しを向けた。
力ある民と力なき民。
フラクシヌス教徒とキルクルス教徒。
ラクリマリス大使とネモラリスの国会議員。
この時局で、キルクルス教徒の自治区代表が、フラクシヌス教の聖地を有する国の外交官と面談できただけでも奇跡に近い。
ラウエウス議員が言い淀むと、ザトヴォール大使はひとつ溜め息を吐いて言葉を発した。
「湖上封鎖の件でしたら、私の与り知らぬところでの決定です。ただ……」
「ただ……?」
「私が召還されないことで、我が国の立場と、陛下のお考えをご推察いただけませんか」
ラクエウス議員は、深い年輪の刻まれた額を拭いつつ、素早く考えを巡らせた。
ネモラリス共和国、ラクリマリス王国、アーテル共和国は元々ひとつの国だ。
半世紀の内乱後の和平協定で分裂したが、ラクリマリスには民族融和派が多い。魔道偏重政策を採ったことでアーテルから一方的に断交されたが、ラクリマリス側は門戸を閉ざさなかった。ネモラリスとは友好関係を持続する。
……どちらとも争いたくはない、と言うことか。
ネモラリスには、人道支援と外交パイプの維持、アーテルには、湖上封鎖によるネモラリス水軍への妨害で、両方にイイ顔をするのか。
将来、講和の仲介役となる為、曖昧な態度を続けると言うのか。
聖地を擁する王国が、明確にアーテルと敵対する意志を示せば、周辺のフラクシヌス教国も参戦せざるを得なくなる。
湖南地方でキルクルス教を国教とする国は、アーテルとラニスタの二カ国のみ。勝敗は火を見るより明らかだ。
元は「身内」だった国を滅ぼしたくないとでも言うのか。
「……陛下のご深慮、感謝の言葉も見つからぬ程です」
ラクエウス議員は、質問の言葉を飲んでザトヴォール大使に深々と頭を下げる。
ラクリマリス王国の大使は何も言わず、鷹揚に頷いてみせた。
アーテルとラニスタも、ラクリマリスに手を出せばどんな結果をもたらすか、わからぬ程に愚かではないだろう。
ラクリマリス王室は、頭上を飛び交う小煩いハエを見る思いに違いない。
ラクエウス議員は、引き下がらざるを得なかった。
内心忌々しく思いながら、大使館を辞去する。内閣府には立ち寄らず、まっすぐ議員宿舎へ戻った。
護衛を下がらせ、自室で一人になる。檻の熊のように歩き回って考えた。
空襲後、電話が不通になり、リストヴァー自治区の姉と連絡が取れない。不安はあるが、あの姉のことだ。自分より上手く立ち回るだろう。
それより、大局だ。
アーテルとラニスタの各キルクルス教団体から支援を受け、星の道義勇軍が蜂起する件は、ラクエウス議員も把握済だ。
その後、ネモラリス政府から譲歩を引き出し、星の道義勇軍と引き換えに自治区を拡大させる予定だった。
ゼルノー市が丸ごと手に入れば最良だが、最低限、穀倉地帯のゾーラタ区だけでも手中に収めることが、ラクエウスに与えられた使命だった。
星の道義勇軍の蜂起に乗じ、バラック地帯に火が放たれた。
自治区に本社を置く複数の工場長と不動産会社、ゼネコンなどが結託し、キルクルス教原理主義組織「星の標」の構成員に実行させたのだ。
その情報は、姉のクフシーンカが調べた。
弟の身を案じて伏せたようだが、姉がまとめた資料を見た支持者が、首都クレーヴェルに本社を置く工場を通じて秘かに知らせてくれた。
沿岸部の再開発をしなければ、経済の停滞を打破できないと言うのが理由だ。
住民の立ち退きには、多額の費用と時間を要する。行き場のない住民が反対運動を起こせば交渉は止まる。裁判になれば、更にカネと時間が空費される。
バラック地帯を手っ取り早く更地に戻し、反対者を減らす好機と踏んだのだ。
放火を魔法使いの報復だと思わせれば、生存者の憎悪はゼルノー市民に向けられる。報復を生んだ恨みの矛先を星の道義勇軍に向けさせれば、「テロリスト」として処刑しやすくなる。
武装蜂起した星の道義勇軍は貧民の集まりだ。
魔法使いに対抗する為なら、魔法を無効化する呪符や呪具の使用も躊躇わない。星の標や信仰を厳格に守る人々からは、異端者だと白眼視される。
スケープゴートとして信仰に殉じられるなら、泥水を啜って生き存えるより幸せだろう……と言うのが、自治区西部住民の大方の考えだ。
バラック街への放火を事前に知っていれば、ラクエウスは一命を賭しても計画を中止させる為に動いた。たとえ、不可能としてもだ。
姉は恐らく、かなり前にその情報を把握した筈だ。
弟の気性を知るからこそ、隠し立てしたのだろう。
姉の気持ちはわからなくもないが、歯痒くもある。
ラクエウス議員は気持ちを切り替え、当面必要なことを考えた。
ラクリマリス王国からの物資は、ネーニア島北部の諸都市に分配される。
クブルム山脈に近い地域は、空襲被害が酷い為、放棄すると決定した。
通信は途絶したが、リストヴァー自治区西部は無傷の筈だ。救援物資を回さなければ、生存者が餓死してしまう。
アーテル空軍が、この三十年でこれ程までに力をつけたとは、ラクエウスにとっても想定外だった。
面的爆撃でクブルム山脈の北側……ネモラリス共和国領南部は、たったの二日で灰燼に帰した。
力なき民は絶望的だろうが、力ある民なら、生き延びた可能性が皆無ではない。現に半世紀の内乱でも多くが生き残った。
何故、山脈沿いの地域を放棄したのか。
ラクエウスは、政府の対策本部でも首を傾げた。だが、反対意見は賛成多数で否決され、押し切られた。
政党に所属せぬラクエウス議員には、与党内部でどんな根回しが行われたのか、知る由もない。
今はそれどころではない。
一刻も早く、リストヴァー自治区の被害状況を調査し、救援物資を届けなければならなかった。
☆半世紀の内乱後の和平協定……「0001.内戦の終わり」参照
☆ラクリマリスには民族融和派が多い/一方的にアーテルから断交された……「0118.ひとりぼっち」参照
☆ネモラリスには、人道支援と外交パイプの維持……「0144.非番の一兵卒」参照
☆湖上封鎖によるネモラリス水軍への妨害……「0127.朝のニュース」「0144.非番の一兵卒」「0154.【遠望】の術」参照
☆アーテルとラニスタの各キルクルス教団体から支援を受け、星の道義勇軍が蜂起する件……「0034.高校生の嘆き」~「0036.義勇軍の計画」参照
☆バラック地帯に火が放たれた……「0054.自治区の災厄」参照
☆姉のクフシーンカが調べた……「0156.復興の青写真」参照
★第八章 あらすじ
工員クルィーロたち十人は、放棄された放送局でトラックを手に入れ、人の住む街へ出発する。
針子アミエーラは、クブルム山脈の旧街道で魔物に襲われる。
自治区では、復興後の計画について、策略が巡らされていた。
魔装兵ルベルは【遠望】の術を使い、魔哮砲の姿を目にする。
ラクエウス議員は、ラクリマリス王国の外交官と面談できたが……
※ 登場人物紹介の一行目は呼称。
用語と地名は「野茨の環シリーズ 設定資料」でご確認ください。
【思考する梟】などの術の系統の説明は、「野茨の環シリーズ 設定資料」の「用語解説07.学派」にあります。
★登場人物紹介
◆湖の民の薬師 アウェッラーナ 呼称は「榛」の意。
湖の民。フラクシヌス教徒。髪と瞳は緑色。
隔世遺伝で一族では唯一の長命人種。外見は十五~十六歳の少女(半世紀の内乱中に生まれ、実年齢は五十八歳)
父と姉、兄、甥姪など、身内で支え合って暮らす。実家はネーニア島中部の国境付近の街、ゼルノー市ジェリェーゾ区で漁業を営む。
ゼルノー市ミエーチ区にあるアガート病院に勤務する薬師。
魔法使い。使える術の系統は、【思考する梟】【青き片翼】【漁る伽藍鳥】【霊性の鳩】
真名は「ビィエーラヤ・オレーホヴカ・リスノーイ・アレーフ」
◆パン屋のレノ 呼称は「馴鹿」の意。髪の色と足が速いことから。
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。十九歳。濃い茶色の髪の青年。
ネーニア島のゼルノー市スカラー区にあるパン屋「椿屋」の長男。
両親と妹二人の五人家族。パン屋の修行中。
レノは、髪の色と足が速いことからついた呼称。「馴鹿」の意。
◆ピナティフィダ(愛称 ピナ) 呼称は生まれた季節に咲く花の名。
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。中学生。二年三組。濃い茶色の髪。
レノの妹、エランティスの姉。しっかりしたお姉さん。
◆エランティス(愛称 ティス) 呼称は生まれた季節に咲く花の名。
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。小学生。五年二組。濃い茶色の髪。
レノとピナティフィダの妹。アマナの同級生。大人しい性格。
◆工員 クルィーロ 呼称は「翼」の意。
力ある陸の民。フラクシヌス教徒。工場勤務の青年。二十歳。金髪。
パン屋の息子レノの幼馴染で親友。ゼルノー市スカラー区在住。
両親と妹のアマナとの四人家族。隔世遺伝で、家族の中で一人だけ魔力がある。
魔法使いだが修行を怠り、使える術の系統は【霊性の鳩】が少しだけ。
機械に興味があるので、ゼルノー市グリャージ区のジョールトイ機械工業の音響機器工場に就職。
◆アマナ 呼称は生まれた季節に咲く花の名。
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。クルィーロの妹。金髪。
小学生。五年二組。エランティスの同級生。ゼルノー市スカラー区在住。
◆少年 ローク 呼称は「角」の意。
力なき陸の民。商業高校の男子生徒。十七歳。ディアファネス家の一人息子。
ゼルノー市セリェブロー区在住。家族と相容れず、家出する。
祖父たち自治区外の隠れ教徒と、自治区の過激派が結託したテロ計画を知りながら、漫然と放置した。
保身に走り、後悔しがち。
◆お針子 アミエーラ 呼称は「宿り木」の意。
陸の民。キルクルス教徒。十九歳の女性。金髪。青い瞳。仕立屋のお針子。
工員の父親と二人暮らし。祖父母と母と弟妹は病死。弟妹はいずれも幼い頃に亡くなり、人数も憶えていない。泥棒が同情するレベルの赤貧。
魔力はあるが、魔法が使えない。
母方の祖母が力ある民。隔世遺伝で魔力を持つが、魔法を教わっておらず何もできない。
◆仕立屋の店長 クフシーンカ 呼称は「睡蓮」の意。
力なき陸の民。キルクルス教徒。一人暮らしの老婆。気前がいい。
リストヴァー自治区の団地地区で、仕立屋を経営している。
アミエーラの祖母の親友。ずっとお互いに助け合ってきた。
◆フリザンテーマ 呼称は「菊」の意。
力ある陸の民。フラクシヌス教徒。アミエーラの祖母。クフシーンカの幼馴染で親友。
夫は力なき陸の民でキルクルス教徒。内戦終了後はリストヴァー自治区に移住した。
自治区では、魔法使いであることを隠す為、知り合いの居ないバラック地帯で生活した。
◆カリンドゥラ
力ある陸の民。長命人種。
アミエーラの祖母フリザンテーマの姉。仕立屋の店長クフシーンカの幼馴染。
無事なら現在もネモラリス島に住んでいる筈。
◆少年兵 モーフ 呼称は「苔」の意。
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍の少年兵。十五~十六歳くらい。
リストヴァー自治区のバラック地帯出身。
アミエーラの近所のおばさんの息子。祖母と母、足が不自由な姉とモーフの四人家族。
父は、かなり前に工場の事故で亡くなった。
以前は工場などで下働きをしていた。自分の年齢さえはっきりしない。
貧しい暮らしに嫌気が差し、家出してキルクルス教徒の団体「星の道義勇軍」に入った。
◆隊長 ソルニャーク 呼称は「雑草」の意。
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍・第三小隊の隊長。モーフたちの上官。おっさん。
知識人。冷静な判断力を持つ。
キルクルス教徒だが、狂信はしない。自爆攻撃には否定的。
陸の民らしい大地と同じ色の髪に、彫の深い精悍な顔立ち。空を映す湖のような瞳は、強い意志と知性の光を宿す。
◆元トラック運転手 メドヴェージ 呼称は「熊」の意。
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍の一兵士。おっさん。
リストヴァー自治区のバラック地帯出身。
以前はトラック運転手として、自治区と隣接するゼルノー市グリャージ区の工場を往復した。
仕事で重傷を負い、ゼルノー市ジェリェーゾ区にある中央市民病院への入院経験がある。
◆ルベル 呼称は「赤」の意。髪の色に由来。
力ある陸の民。男性。フラクシヌス教徒。兵学校を卒業して数年の若い兵。
ネモラリス政府軍の魔装兵。ネーニア治安部隊の隊員。末端の兵卒。
【飛翔する蜂角鷹】学派の術を修め、偵察などを主な任務とする戦闘員。
テロ鎮圧作戦中に戦争が始まり、急遽、水軍の守備隊に転属させられる。
軍用魔道機船に乗り組み、見張りとして空襲の警戒にあたる。
軍服は魔法の鎧。
実家は、ネモラリス島北東部の山中にあるアサエート村。アーテル共和国からは最も遠い。
◆ラクエウス議員 現在の呼称は「罠」の意。
力なき陸の民。敬虔なキルクルス教徒。老人。クフシーンカの弟。
ネモラリス共和国リストヴァー自治区出身の国会議員。無党派。自治区の発展の為、尽力する政治家。
◆ザトヴォール 呼称は「閂」の意
ラクリマリス人。力ある陸の民。男性。フフラクシヌス教徒の主神派。
外交官。駐ネモラリス共和国ラクリマリス王国大使。元貴族。




