1557.来た道を思う
「レノさん、交換品でいただいたバター、少し分けてもらっていいですか?」
「いいですけど、どうするんです?」
「濃縮傷薬を作ろうと思って」
「あッ! どうぞどうぞ! 全部でもいいですよ」
ピナの兄貴が、交換品の山から呪文入りの布に包まれた塊を出す。
薬師のねーちゃんは苦笑いした。
「全部お薬にしたら、明日、クッキー作れなくなりますよ」
木箱にバターを置いて、包みを開く。
あの布は、【保冷布】と言う魔法の品だと聞いた。端にひとつだけ付いた【魔力の水晶】から魔力がなくなるまで、包んだ物をずっと冷やし続けるらしい。
二人は定規でバターを測り、どのくらい残すか相談を始めた。
ピナと妹とアマナは、明日に備えて砂糖と小麦粉を篩に掛け、計量スプーンできちんと量って紙袋に小分けする。
モーフには、何故そうするのかわからないが、質問する気力も、手伝う気力もなく、三人の作業をぼんやり眺めた。
ラジオのおっちゃんとソルニャーク隊長、アマナの父ちゃん、漁師の爺さんは、ラゾールニクとクルィーロが、タブレット端末で録った音声を書き起こすのに忙しい。神殿と神官の家で交わされた会話が、何度も繰り返し流れる。
メドヴェージのおっさんは、FMクレーヴェルのワゴン車に居る。
どうやら、DJの兄貴に蔓草細工の作り方を教えるらしい。【灯】の薄明るい光の中で、二人の手許のちまちました動きがぼんやり見えた。
葬儀屋のおっさんは、モーフの横で絵本を熱心に読む。
フラクシヌス教の神話を描いた「すべて ひとしい ひとつの花」だ。
何もしないのは、モーフ一人だ。
誰にも話し掛けられない。
まるで、ここに居るのに誰の目にも見えなくなった気がする。
少年兵モーフは、ポケットから腕章を取り出した。
黒地に白で大小の星が刺繍され、夜空と「聖なる星の道」を表す。
……聖者様……キルクルス様。
星の道義勇軍の旗印だ。
二度とつけないだろうが、ソルニャーク隊長とメドヴェージのおっさんは、捨ててしまったのだろうか。
……俺は信仰の為に訓練受けて、やっとこさ、これもらって、信仰を守る戦いに出て、それで。
今は、魔法使いと行動を共にする。
魔法で守られてぬくぬくと過ごし、魔法の火で煮炊きした物を食べ、一食抜けただけで不満を感じるようになった。
少しばかり読み書きできるようになり、小学校の教科書は大体読めたが、計算は苦手なままだ。
ピナの妹は、小麦粉などをきっちり量って、各材料を正しい配合で混ぜられる。
だが、モーフは彼女らの作業を見ても、何をどうするかよくわからなかった。わかったつもりで失敗して、食材をダメにするのが怖くて、自分からは手伝えない。
ピナたちに頼まれれば、できることは何でもするが、いちいちひとつずつ指示を出してもらわなければ、何をすればいいかわからない。
教えてもらっても、何かする前にひとつずつ確認しなければ、間違えるのが怖くて実行できなかった。
説明が必要な分、却って足手纏いな気がしてならない。
ピナの妹は、小学校で習った知識をパン屋の実務で使いこなせるが、モーフは、必要な知識を頭に入れるのも、まだまだ中途半端だ。
何か間違って覚えたかもしれないが、確認すらできない。
……工場で下働きしてた頃と、あんま変わんねぇんだよな。
このトラックは工場と違って、何をすればいいか先にきちんと説明され、虫の居所次第で殴られたりしない。
だが、それはピナたちがいい人だからだ。モーフ自身が仕事をきちんとこなせるようになったからではない。
自治区に居た頃のモーフは働き詰めで、小学校にもロクに通えず、読み書きがほぼできなかった。バラック街の基準でも、無知で貧乏でみすぼらしいガキだった。
自治区を出てから、みんなに色々なコトを教えてもらい、今は少し読み書きできるようになった。バラック街なら、これだけで物識りの部類に入るが、外の基準では、無知な子供であることに変わりない。
勉強不足で、年相応の知識と技術すら、まだ身につけられないでいる。
パン作りでは、年下のピナの妹に指図してもらわなければ、動けない。
足留めされた村の学校で、ピナの兄貴が調理実習をして、メシの作り方を詳しく教えてくれたが、モーフ一人であれを作れる気がしなかった。
リストヴァー自治区を出てから教会へ行けず、司祭様の話を聞けなくなった。それでも、モーフの中で、力なき民を知の灯で導いて下さる聖者キルクルスに対する信仰は、変わらない。
知識は、忘れない限りどこにでも持って行ける。
嵩張らず、他人に奪われて失うことのない財産。
知識は身を守る防具であり、幸福へと到る道標。
書き記せば、世代と時代を越えて、継承できる。
司祭様は、聖者キルクルス・ラクテウス様の代理人だ。礼拝では毎回、「ですから、なるべくたくさん勉強しなさい」と言った。聖者様も大昔にきっと、同じコトをみんなに言って回ったのだろう。
フラクシヌス教の神殿は、聖者様が生まれるずっと前からあると言う。
聖者様は、神殿をご存知だろうか。
モーフは、小学校にもロクに行けないのを申し訳なく思ったが、平日は毎日仕事で忙しく、家で勉強する余裕などなかった。
バラック街の家々には、電気もガスも水道も何もなく、日が暮れれば寝るしかない。冬は、遠くの街灯を頼りにバラックの隙間でしかない道なき道を帰った。
生まれ育ったバラック街は、あの冬の大火で焼けて、今はキレイな街になったらしい。
モーフは報告書の写真を見て、現地へ行ったソルニャーク隊長たちからも聞いたが、同じ街とは思えず、ピンとこなかった。
……スパイの兄ちゃん、説教壇に上がってみんなに聖典を読み聞かせたって?
先程、情報ゲリラのラゾールニクが言ったコトを思い出し、身震いした。
あそこへ上がっていいのは、司祭様だけだ。モーフたち子供が上がると、大人たちにこっぴどく叱られた。
ラゾールニクは異教徒でも、大人だから叱られなかったのか。
……違う。異教徒でも、聖典の中身がちゃんとわかって、みんなを守る力があるからだ。
モーフは、イーヴァ議員のアジトで聖職者用の聖典を見せられたが、目次どころか、表紙の題名すら読めなかった。
フラクシヌス教には聖典がない。
神殿に行く者は、一人一個ずつ【魔力の水晶】を奥へ置いて来るだけだ。
仮病を使っても、この村には薬師が居る。
他の誤魔化し方は、何時間考えても思いつけなかった。
空が白み、鳥が囀る頃、やっと結論が出た。
異教徒のラゾールニクが、説教壇に上がって咎められないなら、モーフが神殿へ行っても、聖者様は許して下さるだろう。
……俺が行かなきゃ、ピナたちが殺されるかもしんねぇんだよな。
心が定まった今、自分が何故、あんなにも動揺したのか、わからなくなった。




