1523.庁舎前の惨事
ロークは、十七時に区役所の玄関が閉まるまで、四軒しか問い合わせの電話を掛けられなかった。
どの塾も、生活困窮者向けの月謝減免措置がない。
魔哮砲戦争の開戦から二年余りで、多数の失業者が生じた。
学問を重んじるアーテル共和国でも、営利目的の学習塾では、貧困層への救済措置をする気は、さらさらないらしい。
魔獣出現による休校で、学習の遅れが生じた。
埋め合わせる補講も、既に枠がいっぱいで、カネがあっても受講できない所さえある。
自家用車が使えない家庭向けにマイクロバスで送迎する塾もあるが、ガソリン代が上乗せされた。
開戦以来、ラクリマリス王国による湖上封鎖で物流が滞り、戦争当事国のネモラリス共和国とアーテル共和国だけでなく、周辺諸国も巻き込んで物価が上昇した。
特に小麦と燃料の高騰が著しく、アーテルではこの二年程で、体力のない中小企業が次々倒産。個人商店も大打撃を受け、商店街にはシャッターが連なる。
キルクルス教の教義に従い、正式な学校なら、授業料の自己負担はないが、学習塾や予備校などは、また別だ。
四軒とも、最後は教会で聞けと言われた。
十七時を過ぎると一気に人が減り、区役所前の喫茶店も、ロークの他は隅の席に商談客が二組しか居ない。
クラウストラを待つ間、不味い代用珈琲を啜りながら、タブレット端末を触る。商談の内容に聞き耳を立てつつ、電話中に取ったメモに肉付けして過ごした。
塾の情報を書き終え、順番待ちの列で、近くの大人から得た情報も書く。
区役所の玄関から遠い間は、暇潰しに知らない若者の話に応じてくれた。
最初に話し掛けた会社員の勤務先だけでなく、複数の会社が、シフトを組んで休日をなくしたらしい。
衛星移動体通信システムを入手できた事業所の中には、一度に通信できるデータ容量が小さい為、夜勤をしてまで、なるべく回線が空く時間帯に遣り取りする所もあると言う。
電話回線が復旧した取引先へ電話するにも、こちらがまだ使えなければ、公衆電話に頼らざるを得ない。
今のところ、公衆電話の列が魔獣に襲われたとの話はないが、首都ルフスの者たちは怯えながらも、仕方なく並ぶのだと言う。
屋上に魔獣が居座るビルに入居する事業所も、どうやらそこから動かないらしいと判断し、大分部が出社を再開した。
屋上に設置された通信設備の復旧は、魔獣の駆除が済まない限り、手を着けられない。端末用の基地局やアンテナは、多くがビルの屋上にある。
電話にも、人工衛星と直接通信できる機種があるにはあるが、数が少ない上に高価だ。
イグニカーンス市の屋上は、素材屋プートニクが狩り尽くしたが、首都ルフスでは、まだ手つかずだ。
電柱と周辺の電線を復旧させるだけで済む所は、電話が使えるようになったが、ビルに入居する事業所を中心に復旧の目途さえ立たないところは多かった。
……ネットが使えるとこも、まだまだ少ないし、経済的なダメージ、洒落になんないよな。
湖底ケーブルを所有する通信大手各社は、魔哮砲戦争が終わらない限り、復旧作業には着手しないと宣言した。
ルフス工業団地計画に名乗りを上げたバルバツム連邦の企業は、通信回線が使えないのでは話にならないと二の足を踏む。中には完全撤退を表明した社もある。
……そう言えば、アーテル軍の基地って、今、どうなってるんだっけ?
いつの頃からか、アーテルの新聞に軍関係の記事が載らなくなった。
ロークたちでも情報収集できるくらいだ。ネモラリス政府軍も、アーテル本土に土地勘のある兵士を間諜として送り込むだろう。
何食わぬ顔で新聞を買って、【跳躍】で持ち帰るだけでも、かなりの情報量になる。
「お待たせー」
事務員姿のクラウストラが、喫茶店の扉を細く開け、顔を覗かせる。ロークは、冷めきった代用珈琲の残りを一気に飲み干した。
雑居ビルの拠点に戻り、クラウストラに端末を預ける。
「そっちはどうだった?」
「すみません。人が多くて四軒しか掛けられませんでした」
硬貨の残りを返す。
クラウストラは、硬貨を剥き身で事務机の引き出しに片付けた。
「そうか。こちらは昼過ぎに魔獣が現れ、それどころではなくなった」
「えぇッ?」
クラウストラは、ロークを手近な席に座らせると、タブレット端末で動画を再生させた。
四眼狼が、逃げ惑う人の群を蹴散らす。
転んだ会社員の首を食い千切り、逃げようとするスラックスの足を噛み折る。
ルフス光跡教会に侵入した双頭狼と同様、捕食ではなく、殺傷が目的なのは明らかだ。
警備員が、瞬く間に血の海と化した広場で、特殊警棒を手に立ち竦む。
人々は先を争って、ルフス南区役所の庁舎内に逃げ込む。
一人が転ぶと、足を取られた者が更に転び、次の者は後ろから押されて立ち止まることもできず、入口に人が折り重なった。倒れた人を乗り越えてでも逃げ込む者が多く、一度倒れたが最後、起き上れない。
パトカーのサイレンが細く響く。
逃げ惑う人を避けた車が、対向車線のトラックと正面衝突する。
付近の店に助けを求め、戸を叩く者。
店の扉を閉ざし、椅子などで塞ぐ者。
車道に飛び出して跳ねられた者が、次々と後続車に轢かれた。
四眼狼は、たった一頭だ。
パトカーの到着時には、区役所前に生きて動く者はなく、魔獣も姿を消した。
「四眼狼と目が合ったが、何もされなかった」
「えッ?」
「恐らく、“力なき民を殺せ”とでも命じられたのだろう」
「どうしてわかるんです?」
「奴らは、魔力を嗅ぎ分ける。普通なら、力ある民を好んで喰らう」
ロークはどう反応していいかわからなかった。
「えっと……電話は、時間掛かる割に情報量少ないんで、塾と教会、直接回ろうと思ったんですけど、どうしましょう?」
当分、アーテル本土に来るなと言われると思いつつ、聞いてみた。
「私が同行する。来週までに回る順序を決めておけ」
「了解!」
ロークは意外な答えに驚いたが、願ってもないと即答する。
ネモラリス島の南部と西部の回線復旧状況と、アーテル軍の基地の調査を頼み、ランテルナ島へ戻った。
☆周辺諸国も巻き込んで物価が上昇……「285.諜報員の負傷」参照
☆特に小麦と燃料の高騰が著しく……「440.経済的な攻撃」参照
☆体力のない中小企業が次々倒産……「0956.フリグス基地」「1156.掴ませる情報」「1290.工場街の調査」参照
☆個人商店も大打撃……「800.第二の隠れ家」「0957.緊急ニュース」「0966.中心街で調査」「0999.目標地点捕捉」参照
☆イグニカーンス市の屋上は、素材屋プートニクが狩り尽くした……「1380.呪符屋の店員」参照
☆魔哮砲戦争が終わらない限り、復旧作業には着手しないと宣言……「1261.対クレーマー」参照
☆ルフス工業団地計画に名乗りを上げたバルバツム連邦の企業……「1262.沈みゆく泥船」参照
☆ルフス光跡教会に侵入した双頭狼……「1074.侵入した怨念」参照




