1504.陸の民の候補
唯一の陸の民候補は、ナウチールスと言う呼称の男性だ。
それどころか、ホールマ市の市会議員選挙史上初だろう。
選挙公報によると、年齢は四十六歳。ネーニア島のガルデーニヤ市出身だ。空襲から身ひとつで、ネモラリス島東部のホールマ市まで逃れてきた。
役所と銀行の手続きを経て、身分証と預金通帳の再発行ができたようだ。現在は無職で仮設住まいだが、立候補に必要な供託金を払える経済力があった。
……落ちたら没収されるのに強気だなぁ。
レノは昨夜、アナウンサーのジョールチに教わったことを思い出した。選挙事務所がある仮設住宅へ向かう道すがら、ナウチールス候補の人物像を思い描く。
選挙公報からわかるのは、力なき陸の民なのと、ガルデーニヤ市に居た頃、バス会社に勤めたことだ。運転士なのか、他の仕事なのか、職種まではわからない。
レノは、バス会社にどんな部署があるか知らず、全く想像もつかなかった。
……俺ってホント何も知らないんだな。
こんなコトなら、もっと勉強しておけばよかったと、何度目かわからない後悔が首をもたげる。
中学と高校で、それぞれ少しずつ、色々な職業について学ぶ授業があった。
レノは、パン屋にしかならないのだから、聞いても仕方がないと思い、他の授業で出された課題をして時間を潰した。
何故、他の仕事を知ろうともしなかったのか。
後悔に押し潰され、ナウチールス候補について考えるどころではなくなった。はぐれないよう、ジョールチとラゾールニクについて行くだけで精一杯だ。
「具合でも悪いのか?」
「えっ? い、いえ、大丈夫です」
「そうか」
隣を歩くソルニャーク隊長に気遣われ、レノは背筋を伸ばした。
ナウチールス候補は、今回、唯一の陸の民候補だ。
警戒されないよう、陸の民だけで会いに行く。四人ともホールマ市の市会議員選挙の有権者ではない。移動販売店の御用聞きとして、情報収集するのだ。
市役所最寄りの【跳躍】許可地点までは、ジョールチとラゾールニクに跳んでもらった。昨日とは反対方向にある高校を目指す。
車道を行くのは業務用車両ばかりだ。
道沿いの民家は、庭付き一戸建てが多いが、車庫付きの家は一軒もなかった。
様々な髪色の者を見掛けたのは、商店街と仮設住宅周辺だけだ。そこを少しでも離れると、緑髪だけになり、黒、茶、金髪の四人は周りから浮いた。
「おかーさーん、アタマー」
「しッ! 指差しちゃいけません!」
緑髪の母親が、レノたちを指差した幼児を抱き上げ、足早に去る。
……そりゃまぁ、生まれて初めて見たんだろうけどさ。
レノは、何とも言えない気持ちで緑髪の母子を見送った。
高校の校庭は、半分が仮設住宅で埋まる。工事現場によくある白い遮音壁がプレハブを囲み、体育の授業と国内避難民の生活を隔てる。
「こんにちはー。こちらにナウチールス候補の選挙事務所があるって聞いて来たんですけど」
ラゾールニクが老人に声を掛ける。老人は、洗濯物を握った手を左に振った。
「集会所の隅っこだ」
「ありがとうございます」
レノとラゾールニクが同時に言い、四人は物干し竿の間を縫って奥へ向かった。
集会室の戸に「市会議員候補ナウチールス事務所」と油性マジックで書いた紙が貼ってある。よく見ると、カレンダーの裏だ。
選挙ポスターの類は市役所周辺で見た限り、どれも色褪せ、どの候補者も新しい物は刷れなかったようだ。だが、こんな物まで節約しなければならないナウチールス候補の窮状に胸が痛んだ。
「ごめん下さーい。移動販売店の者です。ご入り用の品、ありませんか?」
ラゾールニクがノックに続き、返事も待たずに戸を開ける。四人は集会室に身を滑り込ませ、素早く戸を閉めた。
ここも、内職の作業場だ。
奥の一角が段ボールで仕切られ、男性が黒電話で話す。
編み物の手を止め、女性が聞く。
「移動販売? 売り物はどこ?」
「漁協の駐車場にトラック停めさせてもらってます」
「パンとか食料品が中心ですけど、【耐寒符】とか住宅用の呪符もありますし、他のも、三日くらいいただけたら、仕入れますよ」
レノの一言にラゾールニクが付け足した。
呪符を書く手を止め、年配の女性が肩を回して言う。
「どうせ、高くて買えないに決まってるじゃない」
レノとラゾールニクが、ここの住人相手に昨日の仮設と同じ遣り取りを繰り返し、ジョールチが無言でメモを取る。ソルニャーク隊長も、何かをメモしながら、電話の男性を窺う。
「ここ、電話あるんですね」
「選挙用にリャビーナの慈善団体の人が、あっちで募金集めて、臨時のを引いてくれたんだ」
「役所の連絡とか、俺らも偶に貸してもらうんだ」
「役所へ行って戻るだけで一日仕事になるから、すっごく助かってるの」
「選挙終わるまでだから、来月で終わりだけどな」
奥の男性が受話器を置き、こちらを見た。仮設の住民が笑顔で会釈する。
ソルニャーク隊長が一歩前に出た。
「あなたが、ナウチールス候補ですか?」
「はい。あの、あなた方は?」
住民が移動販売だと説明し、ホールマ市唯一の陸の民候補はやや緊張を解いた。
ソルニャーク隊長が、ニコリともせず言う。
「選挙で必要な事務用品なども調達可能です」
「欲しい物はたくさんあるんですが、何せ、資金が……」
「あー……供託金で」
ラゾールニクがわかった風な顔で頷くと、ナウチールス候補は苦しげに俯いた。
「いえ、あれも、電話も、リャビーナの慈善団体の方々が、寄付を集めて下さって……みなさんの善意を無駄にしない為にも、この選挙、負けられないんです」
「ですよねー。ガルデーニヤでも出馬したコト、あるんですか?」
ラゾールニクが軽やかに聞くと、ナウチールス候補は顔を上げた。




