1491.連鎖する幸せ
一般的な昼食の時間を過ぎたが、定食屋の席は、まだ半分程度が埋まる。
客の大半が作業服姿だ。工場のシフトの関係だろう。
店内にはスープの匂いが満ちる。
メニューはなく、客が口にするのは同じパンとスープだ。
「あら、店長さん。新聞屋さんまで……こんなむさ苦しい所へ……」
「むさ苦しいだなんてとんでもない」
「どうだい。商売の方は?」
二人が座ると、定食屋のおかみさんは目を丸くした。
「えっ? 二人とも、ここで食べてってくれるんです?」
「集金で近くまで来たからな、ついでだよ」
「スープなら、私でも食べられますからね」
クフシーンカが、椅子の背に杖を立て掛けると、おかみさんはこくりと頷いた。
「ここのスープが旨いって評判になってっから、一回食ってみたかったんだ」
新聞屋が付け足すと、おかみさんが頬を染めた。
「えぇっ? ウチの店が西教区でハナシのネタに? しかも、美味しいって? そんなまさか……あっ、二人とも、わざわざ西教区からわざわざ、ウチで食べに? わざわざ二人してそんな……」
「料理教室の件で、西教区から通う人が増えましたでしょ? 講師の料理人が、受講生から東教区の美味しいお店を聞いて、評判になってるんですのよ」
しどろもどろだったおかみさんは、とうとう何も言えなくなってしまった。頬を上気させ、呆然と宙を見詰める。
「おかみさん、二人前、よろしく」
「私はもうこの歳ですから、半分くらいで結構よ。残すと勿体ないですからね」
「あ! は、はいッ! たっただいまお持ちします!」
おかみさんが奥へすっ飛んで行き、客たちが苦笑する。
……知らなかったくらいだから、西教区からはお客が来ないのでしょうけれど。
話題になっただけでは、増収に繋がらないのがもどかしい。
そうかと言って、ここだけ西教区の住民に紹介すれば、「不公平だ」と東教区の商店街内で不満が生じかねない。また、西教区から大勢の客が来れば、ただでさえ乏しい食材は、すぐに払底してしまう。
常連の大半はこの近くに勤務する。昼休みが限られ、食事の時間に制限がある工員たちからも、不満が出るだろう。
料理人の亭主自ら、給仕にきた。
「星道の職人さんに来ていただけるなんて……まさか、ウチの店にこんな日が来るなんて……」
お盆を置くなり、エプロンで目頭を押さえる。
おかみさんは厨房の前で固唾を呑んで見守る。
「これ、具は何だい?」
「暮れに農家で牛乳を買った時、牛スジを安く分けてもらえたんですよ。でも、煮込むのに燃料がたくさん要るし、どうしようかと思って、ずっと冷凍してたんです」
亭主がよくぞ聞いてくれたとばかりに語り始め、新聞屋が目を丸くする。
「冷凍……冷蔵庫、持ってんだな?」
「そりゃそうですよ。銀行行って、死ぬ気で借金しましたけどね。奮発した甲斐がありました。こないだ立派な圧力鍋をいただけたんで、それで少ない燃料でも、牛スジをじっくり煮込めるようになったんです。とろとろで、お年寄りでも大丈夫ですよ。食器は救援物資で不揃いですけど、量はちゃんと量ってみんな同じになるように出してます」
クフシーンカの分は、注文通り、新聞屋より小さい器だ。
「キレイな水が前より安く使えるようになったんで、紙皿じゃなくて、ちゃんとした食器で出せるようになって、みんな喜んでくれてるし、諦めねぇで……店、続けて……ホント、よかっ……」
亭主が再び涙ぐむ。
「続けて下さってホントに有難いですよ」
「西教区の人が、何で有難がるんです?」
隣の卓から工員が口を挟む。
クフシーンカは隣に向き直って言った。
「定食屋さんは、お店を再開できましたから、罹災者支援事業に頼らなくても、仕事と生活が回るようになって、みなさんも、ここで美味しいごはんが食べられるようになりましたでしょ? 少しでも、自治区全体の暮らしがよくなるのは、有難いことですわよ」
「そんなモンですかね?」
工員が首を傾げると、新聞屋が話を逸らした。
「このパンもここで焼いたのかい?」
「すんません。パンまで手が回らなくて、三軒隣の店で仕入れました。あっちは料理教室手伝って小麦粉もらったとかで、自分とこの小売だけじゃなくて、業務用の分も焼けるようになったって言ってました。あ、ハナシするんでしたら、呼んで来ましょうか?」
「あちらもお忙しいでしょうから、結構ですよ。でも、ここが営業して下さるから、工場の方々がきちんとお食事できて、パン屋さんも一緒に儲かって、いいこと尽じゃありませんこと?」
「まぁ……後は借金、さっさと返せりゃ言うコトなしですけどね」
亭主は肩を落とし、愛想笑いを浮かべた。
食事を終えた工員が立ち上がり、おかみさんがレジに走る。
「あ、あの、それじゃ、お口に合うかわかりませんけど、ごゆっくり」
亭主も夢から醒めたように厨房へ引っ込んだ。
スープは、牛のスジ肉と野草を牛乳で煮込んだらしい。
味付けは塩と野生の香草だけのようだが、獣臭さがなく、高齢のクフシーンカにも食べやすい。
「これは確かに評判になる美味しさね」
「旨ぇッスね」
パンはバターを仕入れられなかったのか、脂っ気がなかったが、食べ難さを感じるパサつきはない。
あっさりしたパンが、濃厚な味わいのスープと合って、久し振りに食が進む。
「ご馳走さまでした。近頃は、レトルトの介護食ばかりだったけれど、久し振りにきちんと食事ができて、生き返った心地がしたわ」
「ひぇッ……あッ、あんた……あんたぁーッ! 店長さんが、生き返るぐらいおいしいって!」
会計ついでに言うと、おかみさんが厨房に叫んだ。
新聞屋のワゴン車で自宅まで送ってもらい、クフシーンカはホッと一息ついた。
台所まで入ると、廊下の奥で緑髪の魔女が手招きする。
……今日は随分、忙しいこと。
カーテンを閉め切った寝室で、小麦粉の件を伝えた。
「兵隊さんが、グリャージ港から発送して下さるそうよ」
「そう。ありがと。これは私から個人的なお願いと差し入れ」
緑髪の運び屋が【無尽袋】を逆さにして振ると、業務用の大袋に入ったジャムと砂糖が飛び出した。少し遅れて、内容物不明の紙袋がふたつ落ちる。
ジャムは十キロ入りの苺が一袋、砂糖は二十キロ入りの上白糖が二袋、同じ大きさのグラニュー糖は、三袋もある。
「こっちは紅茶。あなたが飲んでもいいし、報酬として使ってもいいわ」
「報酬として使う? 何をすればよろしいんですの?」
運び屋は、もうひとつの紙袋を開け、分厚い紙束を幾つも木箱に並べた。
「カクタケアの三巻までと、外伝をひとつ、共通語訳してもらいたいの」
「あれを……共通語に?」
「これ、〆切」
クフシーンカにメモを渡し、木箱に辞書を積む。
「で、こっちはアーテル版の湖南語辞書と、共通語辞書三冊ずつよ」
文章は簡単だが、科学関係の単語には知らないものが多く、確認に手間取るだろう。一人では到底、間に合わない日程だ。
「学生さんにお願いしてもよろしいですか?」
「えぇ。そのつもりよ。手付にお菓子で釣って、現金は後で用意するわね。お菓子屋さんとあなたの分も」
「私もいただけるんですの?」
「いらなければ、他の人に回してあげて。ダウンロードしたのを章単位でクリップ留めしたから、手分けしやすい筈よ」
緑髪の運び屋は、用件を告げるとさっさと呪文を唱えて去った。
☆料理教室の件……「1452.頭の痛い支払」~「1454.職場環境整備」参照
☆私はもうこの歳ですから……いつ死んでもいいように罹災者支援事業の引継書は作成済み「555.壊れない友情」参照
☆星道の職人……「554.信仰への疑問」「582.命懸けの決意」「629.自治区の号外」参照
特定分野の熟練工で「特別な聖典」を授与された職人。聖職者に次ぐ宗教指導者でもある。
【参考】アーテル共和国でも狭き門……「744.露骨な階層化」参照
クフシーンカはラクエウス議員の姉で、顔繋ぎ役として、自治区内の政治分野の名士の一人。
罹災者支援事業の計画を立案し、慈善事業の指導者でもある。
「294.弱者救済事業」「372.前を向く人々」「373.行方不明の娘」「406.工場の向こう」「418.退院した少女」「419.次の救済事業」「420.道を清めよう」「442.未来に続く道」「453.役割それぞれ」「480.最終日の豪雨」「550.山道の出会い」参照
☆小麦粉の件……「1489.小麦を詰める」参照
☆カクタケアの三巻までと、外伝をひとつ、共通語訳……「1483.出版社に依頼」参照
☆あれを……共通語に?……表紙が破廉恥「1132.事実より強く」「1199.大流行の小説」参照




