0153.畑の道を行く
道が続く限り前へ、とにかく前へ。
アミエーラは何も考えず、いや、痛みと恐怖で何も考えられず、ひたすら坂道を下る。
人の気配はない。
足下の敷石は、数枚毎に【魔除け】の印が刻まれる。両脇には常緑の低木が茂るが、道には枝がはみ出さない。つい最近まで、人の手が入っていたのだ。
振り向く勇気はない。
人の手が入った道には、アミエーラの靴音だけが響く。
痛む身体を引きずり、どのくらい歩いたのか、遠目に民家らしきものが見えた。
いつの間にか日が傾き、空が黄昏に染まる。
野中にポツンと民家が建つ。
周囲は畑らしい。規則正しく並んだ小さな緑が冬の風に揺れる。
針子のアミエーラはずっと以前、店長に連れられて自治区の農家へ納品しに行った日を思い出した。
初夏の心地よい風が麦の穂を揺らした。商品は花嫁衣装で、最後の寸直しに連れて行かれたのだ。
花嫁となる娘のはにかむ顔、燃えるバラック街、黄金色の麦畑、山道を行く祖母、穏やかな日射し、朽ちた屋根から覗く無数の目、農家で出された食事、炎に照らされた人々の不安な顔、試着した花嫁を褒める家族の笑顔、アミエーラを追う魔物の蛙に似た平たい顔……平穏な日々の記憶と、逃れて来た危機が、脈絡なく心に浮かんでは消えてゆく。
一歩足を進める度に、左腕が痛みに軋む。切れた唇が腫れ、ポタリポタリと血が滴り、胸元を汚す。コートとズボンは泥に塗れ、落ち葉もこびり付いていた。
……破れたとこ、直さなきゃ。ちゃんとした恰好してないと店長に叱られる。
ズボンの裾を見て、ぼんやりそんなことを考えながら歩き続ける。
膝も肩も脇腹も頬も、地に足を下ろす度にズキズキと痛んだ。
気が付くと、道の両脇は麦畑だった。畑で働く人はない。芽吹いたばかりの麦が二月の寒さに耐える。
遠くに見えた民家は、かなり大きな構えの農家だ。窓が、傾き始めた日を照り返して輝く。
鳥の声が空に響いて風に流れた。
アミエーラは気力を振り絞り、重い身体を前へ進める。
朦朧とする意識の中、機械的に足を動かし、門に辿り着いた。
既に日は落ちかかり、アミエーラの薄い影が長く伸びる。
石積みの塀は高く、所々に山道と同じ【魔除け】の印が刻んである。門は固く閉ざされ、人声はなかった。
人が居ても、力なき民のアミエーラを助けてくれる保証はない。
今は空襲を免れても、いつ爆弾を落とされるかわからない。
このご時世だ。
荷物だけ奪われて、放り出される可能性が高い。住人が魔法使いなら、とっくにどこか遠くの安全な場所へ避難したかもしれない。
それでも、ここ以外に助けを求める相手はなかった。
僅かな望みを懸け、アミエーラは口を開いた。
「…………!」
声が出ない。口はカラカラに乾き、舌が強張る。
唇の出血は止んで、赤黒い塊が顎にこびり付く。
右手で門を叩く。
金属で補強された木の扉をノックする音が、折れた左腕に響く。痛みが脈打ち、熱を帯びる。
膝から力が抜け、アミエーラは門前に崩れ落ちた。
☆燃えるバラック街……「0054.自治区の災厄」参照
☆山道を行く祖母……「0101.赤い花の並木」「0102.時を越える物」参照
☆朽ちた屋根から覗く無数の目……「0141.山小屋の一夜」参照
☆炎に照らされた人々の不安な顔……「0054.自治区の災厄」参照
☆アミエーラを追う魔物の蛙に似た平たい顔……「0149.坂を駆け下る」参照




