1474.軍医の苛立ち
「本人の身体に傷があるワケではありませんからね」
軍医の困惑した説明が、診察台の上で大柄な身を折り曲げ、苦痛に耐える魔装兵の耳を右から左へ抜けてゆく。
傍らに立つラズートチク少尉が食い下がった。
「そこを何とか……! せめて痛み止めだけでも」
「痛みの原因が、本人の身体にあるなら効きますが、【見診】した限り、彼の身体はお手本のような健康体ですよ」
「では【麻酔】で眠らせるのでは?」
「全身麻酔は呼吸などの管理が大変です。ご覧の通り、私は【青き片翼】の呪医で、呼吸を補助する医療機器も、点滴も扱えません」
「科学の医師は……」
「まだ仮設病院です」
「仮設? どこの?」
……陸軍病院に医者が居ないって?
魔装兵ルベルは耳を疑った。
黒髪の軍医が少尉に答える。
「リストヴァー自治区です。麻疹の流行で駆り出されて、まだ戻りません」
脂汗を浮かべて歯を食いしばる「患者」のルベルそっちのけで、二人の声が次第に大きくなる。
「では、民間から徴発……」
「トポリ市内の民間病院は、どこも満床です。医療者の人手も、医薬品も、医療機器も! 何もかもが足りないんですよ!」
「この魔装兵は、特別な使い魔を使役できる貴重な存在なのだ」
「市民病院は廊下にまで簡易ベッドを並べて受け容れています」
軍医が拳を握る。
「癒し手だけではありません。カルテをまともに読める事務員も、きちんと消毒できる清掃員も、何もかも足りないんですよ!」
魔装兵ルベルはトポリ基地での待機中、連日「臨時政府がトポリ市の復旧作業員を募集した」と報じる新聞記事を目にしたのをぼんやり思い出した。
空襲で焼け出された国内避難民は、日雇とは言え、確実に日当を払う役所の直轄案件に群がった。
国内各地から避難民がネーニア島東部に戻ったが、不慣れな仕事で負傷者が続出した。
事態を重く見たフラクシヌス教団は、空襲の被害がなかった都市の神官に治療の手伝いを要請する。癒し手の数が元々少ないこともあり、ほんの数人派遣されたところで、焼け石に水だ。
更に悪いことに麻疹が持ち込まれた。
トポリ空港の封鎖を恐れた臨時政府は、報道規制を敷いたが、人の口に戸は立てられない。基地には当然、流行の状況が伝わった。
国内避難民が職と住居を求め、ネモラリス島内各地から、ネーニア島のトポリ市に流入した。
復旧作業員用のプレハブ宿舎は過密状態だ。
一人の患者から瞬く間に宿舎全体へ、宿舎から街区一帯へ広がり、トポリ市全域で蔓延するのに多くの時間を要さなかった。
ネモラリス共和国の在外公館や、外国に支社や出張所を構える大企業などが、八方手を尽くしてワクチンを掻き集めた。
ネミュス解放軍も、周辺国の商社などに依頼し、流行の終息に尽力したらしいのが、意外だった。
噂が伝わった当時、トポリ基地内では、今ならウヌク・エルハイア将軍と国内和平の話し合いができるのではないかとの期待が膨らんだ。
しかし、現在に到るまで、臨時政府も解放軍も歩み寄る気配すらない。
ルベルは、どうにかして痛みから注意を逸らそうと、取り留めもなく考え事をしてみたが、何も変わらなかった。
「半世紀の内乱で、ワクチンを接種できなかった働き盛りの世代が、バタバタ倒れてるんですよ」
軍医の声が痛みで弱る身に刺さる。
「彼がどんな化け物と契約したのか知りませんが、健康な人に使える医療機器なんて余ってないんですよ。ただでさえ、空襲のせいで人手が減ってるんですよ。その上、自治区に取られて、トポリ市が今どんな状況か、少尉殿はご存知ないのですか?」
「彼に万一があれば、より多くの国民が命を失う可能性が……」
「今、現に! 人手や物資が充分あれば、救える筈の病人が、バタバタ亡くなって、葬儀屋さんの手まで足りないんですよ!」
軍医は少尉にみなまで言わせず、ここぞとばかりに不満をぶちまける。
「今、この基地に残る癒し手は、私一人です。他の呪医も科学の医師も、看護師も薬師も薬剤師もみんな、市長の要請を受けて、トポリ市内の医療機関に行きました」
「ならば、呼戻し……」
「要請が出てから派遣が決定するまで、二カ月も掛かったせいでこのザマなんですよ!」
ラズートチク少尉は、軍医の苛立ちを無言で受け止めた。
「トポリ市内でのアル・ジャディ将軍と、クリペウス首相の評判……少尉殿は当然、把握しておられますよね?」
軍と臨時政府の動きの鈍さで、市民らの不満が高まるのは、火を見るより明らかだ。その先にあるのが何であるか、ルベルにも簡単に予測がつく。
「保健省の動きの鈍さに業を煮やし、アル・ジャディ将軍が、ご親戚の神官に相談なさって、先に神殿から癒し手を派遣していただいたのだ。軍の医官を動かそうにも、文民統制とやらで、いちいち首相の承認が必要なのでな」
軍医は眉間の皺を深くして、少尉に鋭い目を向ける。
その首相承認も、独断専行を防ぐ為、内閣の過半数の承認が必要だ。
国民を守る為の医官が、軍の暴走を防ぐ制度のせいで、いざと言う時、迅速に動けない。
硬直化して救助の妨げになる制度を邪魔に思うのは、この軍医一人ではない。
「軍医殿」
ラズートチク少尉が姿勢を正すと、【青き片翼】学派の軍医も表情を改めた。
「世界中のキルクルス教徒から一方的に悪と断罪され、人権を否定されるネモラリス人を守る為、この魔装兵をお救い下さい」
「敵がアーテル一国でないことは、私も承知しております。しかし……」
軍医の目が、診察台で意識を失うこともできずにいる使い魔の主に注がれる。
ルベルの苦痛は全身を駆け巡り、どんな姿勢を取っても軽減されない。食いしばった奥歯が軋み、握った拳が白くなる。
全身を強張らせて痛みに耐えるルベルには、沈黙が永遠にも感じられた。
「苦痛からの解放ではなく、単に死なせないだけでしたら……可能です」
「よろしくお願いします」
ラズートチク少尉は最敬礼し、陸軍病院の診察室を後にした。
トポリ基地の陸軍病院に所属する軍医が、ネモラリス共和国民を守り得る使い魔の主に向き直る。少尉に対した時とは別人のようにやさしい声で【見診】を唱え、ルベルの額にそっと手を触れた。
☆仮設病院/リストヴァー自治区です。麻疹の流行……「1287.医師団の派遣」「1288.吉凶表裏一体」「1327.話せばわかる」参照
☆臨時政府がトポリ市の復旧作業員を募集……「1175.役所の掲示板」「1259.割当ては不明」「1342.支援に繋ぐ糸」参照
☆不慣れな仕事で負傷者が続出/神官に治療の手伝いを要請……「1050.販売拒否の害」「1330.連載中の手記」参照
☆ネモラリス共和国の在外公館や(中略)ワクチンを掻き集めた……「1195.外交官の連携」「1249.病の情報拡散」「1256.必要な嘘情報」「1259.割当ては不明」「1286.接種状況報告」「1305.支援への礼状」参照
☆ネミュス解放軍も周辺国の商社などに依頼し、流行の終息に尽力……「1267.伝わったこと」「1286.接種状況報告」「1289.諜報員の心得」「1305.支援への礼状」参照
☆半世紀の内乱で、ワクチンを接種できなかった働き盛りの世代……「1202.無防備な大人」参照
☆世界中のキルクルス教徒から一方的に悪と断罪され、人権を否定されるネモラリス人……「751.亡命した学者」~「753.生贄か英雄か」参照
▼【青き片翼】学派の徽章




