0015.形勢逆転の時
その頃、市民病院の二階に上がったテロリストの別部隊は、全滅していた。
年配の事務員と薬師が、治療を中断して攻撃に転じた。
日々の家事などで使う【霊性の鳩】学派の術を応用して戦う。【操水】の術で水を起ち上げ、銃の内部を水で満たし、発射を妨げる。敵兵の肺へ水を流し込み、溺水させる。
本来は、食器洗いや掃除などに使う術だ。
あらゆる物を武器として戦いに用いる【飛翔する鷹】学派の術者たちが考案し、半世紀の内乱で多くの民兵が身に着けた戦法だった。
年配の事務員の指揮で、入院患者と避難民と病院職員が応戦し、病院を襲撃したテロリストを殲滅した。
最初の銃撃さえ凌げば、形勢が逆転するのにそれ程、時を要さなかった。
半世紀の内乱で戦った経験者が、軍属の事務員の指揮で反撃する。
薬師が【操水】の術で遺体から水を抜くと、患者と避難民もそれに倣った。
死者への冒涜だが、今、同朋の死を悼んで何もしなければ、自分たちが死者の仲間入りをしてしまう。
むせかえるような血臭の中、避難民たちは死者から抜き取った水で壁を建て、銃撃を包んで防ぐ。
従軍経験者たちが、テロリストの肺に水を注いだ。
軍属の事務員と薬師が、水を盾に病室を見て回る。二階に上がった部隊の殲滅を確認し、二人はひとまず安堵した。
テロリストの遺体はいずれも、キルクルス教の聖印「星の道」を描いた腕章を巻いていた。水で流し、廊下の隅に集めて他と区別する。
一階では、外科部の呪医と「葬儀屋」と名乗った湖の民の男性が、テロリスト集団を診察室に追い詰めていた。星の道義勇軍の増援が来なければ、今頃はもう片が付いている筈だ。
「闇照らす 夜の主の眼差しの 淡き輝き 今 灯す」
事務員が術で【灯】を点した。
月光のようにやわらかな光が停電した院内を照らす。窓から火災の光も射すが、窓辺以外は真っ暗だ。
魔法の灯に照らされ闇に浮かぶ顔は、疲労の色が濃い。
定年間際の事務員は、薬師と共に生存者を誘導し、階下へ向かった。
定まった形を持たない雑多な妖魔が、闇の中で無数に蠢く。
建物の損壊で、壁などに施された結界が失われたのだ。物理的にも、いつ倒壊するかわからない。
生存者たちは、小声で【退魔】の呪文を唱えながら、支え合って階段を下りる。
場の穢れを祓う術の効果範囲に入った雑妖が、じりじりと暗がりへ後退した。
怒り、憎しみ、悲しみ、恨み、死……
雑多な妖魔が好む穢れが院内に満ちる。
アウェッラーナは鞄を拾い、後ろ髪引かれる思いで病室を出た。
……お父さん、ごめんね。約束は、なるべく守るから……さようなら。
こんな所に父の遺体を残して行くのは忍びないが、どうすることもできない。
父は、最期にアウェッラーナの真名を呼んで、みんなの分も長生きせよ、と言い残した。
魔法文明の国々では、真名を名乗り、また、それを呼ぶ習慣がない。
真名は魂に直結する。魔力を籠めて真名を呼び、力ある言葉で命ずれば、魔法による強制力が働き、その者を支配できるからだ。
支配に抵抗するには、互いの魔力と精神力での力比べとなる。
最も安全なのは、真名を知られないことだ。
この為、魔法文明国では、実親と兄弟姉妹、夫婦以外に真名を教えない。
真名とは別に、普段の用で使う呼称を用意する。
家庭の方針によっては、兄弟姉妹にさえ真名を教えない。
老父は、敢えてアウェッラーナの真名「ビィエーラヤ・オレーホヴカ・リスノーイ・アレーフ」を呼んで遺言した。
遺言の言葉は、魔力を制御する「力ある言葉」ではなく、この地方で日常的に使われる湖南語であったが、ビィエーラヤ・オレーホヴカ・リスノーイ・アレーフは父の強い願いに心が震えた。
入院後の老父は、家族の呼び掛けに全く反応しない日も多かった。
その父が、最期に昔と同じ目で、ビィエーラヤ・オレーホヴカ・リスノーイ・アレーフを見て、言葉を発した。
この状況では、いつまで父との約束を守れるものかわからない。
明日の朝日を見られるかどうか、誰にもわからなかった。
……お父さん。
アウェッラーナは、昨日、夕日を見詰めていた父の横顔を思い出した。その視線の先に何があったのか。
今はそんな感傷に浸る余裕は微塵もない。
父との約束を守る為に、何としてでも生き延びなければならない。
この病院には、まだ傷薬の素材が残っている。
少しでも多くの薬を作り、見張りと即戦力になり得る怪我人を治療して、人手を確保する必要があった。
夜空を焦がす炎と黒煙。
湖の沿岸地区から続々と逃れて来る生存者の群。
アウェッラーナはイヤでも現実と向き合わされた。




