1454.職場環境整備
「製麺所は、販路が確定したんですのね?」
クフシーンカが明るい声で聞く。
パン屋はこくりと首を縦に振る。
「二軒とも、今は工場の食堂で調理全般してます。その職場で話したら、手応えがあったそうです」
東教区のウェンツス司祭が、西教区から来た聞く。
「パン屋さんとお菓子屋さんは……差し支えなければ」
「ウチは普通のパン。お菓子屋さんは、木の実やドライフルーツを練り込んで、栄養を強化した堅パンを作る予定です」
「それで、月に何回かでいいんで、小学校の給食に納品させてもらえないか、教育委員会に掛け合ってきました」
「偉い人たち、何つってた?」
新聞屋が鋭く問う。
菓子屋は決まり悪そうに頭を掻いた。
「工場が稼働してから、見本を持って来てくれって言われましたよ」
断り文句なのか、本当に検討する気があるのか、微妙なところだ。
ウェンツス司祭が、手書きのメモ以外の物を大判封筒に片付けて言う。
「実は、間もなく調理器具と食用油などが届くそうなのです」
「へぇ……この手紙は……?」
パン屋が、手書きの素っ気ないメモに視線を落とす。
「支援者の方からです。鍋やフライパンなどが届くようですね」
「金属素材……町工場に発注できる物が増えそうですね」
パン屋が瞳を輝かせた。
「今、東教区の有志が、仮設住宅にきちんとした台所を作る話し合いをなさっています」
「その前にお料理の基本や、お鍋の手入れ方法の勉強が必要だと話していたんですのよ」
「店長さんは、料理できますよね?」
菓子屋の主人が訝る。
「私は仕立屋で、お料理は素人ですから。食器洗いの束子作りの説明は致しますけれど」
「工場が完成するまで、学校の空き教室で、大人向けの料理教室をしていただけませんか? 報酬は、役所に相談してからになりますが、小麦で払えるように努力します」
ウェンツス司祭が提案すると、調理師免許を持つ二人は顔を見合わせた。
「お返事……家族や他のみんなに相談してからでも、よろしいですか?」
「調理器具の件は、実際に届いて確認が済むまで、伏せて下さい」
「ヘンに期待持たせちゃ悪いですもんね」
司祭が口止めすると、二人は淋しげな笑みで了解した。
……あら、新聞屋さんがわざわざ聞いて回る手間が省けたわね。
パン屋と菓子屋から、西教区の飲食店経営者には伝わるだろう。実際に油と調理器具が到着した後は、管理の件も含めて教会から東教区の飲食店にも依頼する。
「あなた方の取組が上手くゆけば、似たことを試みる人が現れるでしょう」
「まだ上手く回るかわかりませんけどね」
司祭が言うと、パン屋が苦笑した。
「先駆者であるあなた方にお願いがあります」
「……なんでしょう?」
ウェンツス司祭が改まった口調で言うと、飲食店の二人は背筋を伸ばし、聖職者の目を真っ直ぐ見詰め返した。
「児童労働の禁止、賃金の支払い基準、研修制度、休暇や解雇についてなど、労働条件を明文化して、役所に提出していただけませんか?」
「児童労働の禁止? 貧乏人の子は飢え死にしろってんですか?」
新聞屋が目を剥いた。
司祭は穏やかな微笑で答える。
「今は、東教区の小学校も、毎日、給食が出ます。仕事に行くより栄養価の高い物が食べられるのですよ」
「えっ? そうなんですか? いつの間に……」
「大火の後……校舎が再建されてからですね。仕事へ行くよりたくさん食べられますし、毎日きちんと通学して、読み書きと計算ができるようになれば、将来、仕事の選択肢が増えます」
東教会の応接室に集まった五人は、全員が西教区の住民だ。
東教区は、生き残った商売人が少ない。
役所が再開発で建てた店舗兼住居は、元の五分の一にも満たないが、未だに入居者のない物件が多かった。遊ばせておくのは勿体ないが、ハコモノはあっても、必要な機材を揃えるなどの開業資金がないのでは、手も足も出ない。
東教区の若い世代は、貧しさ故に幼い頃から働きに出ざるを得ず、授業料が無料でも、小学校すら満足に通えなかった者が多い。
子供たちが、口約束の不安定な雇用の下で行うのは、簡単な雑役が中心で、専門知識や技術が身につけられるものではなかった。
教育の機会を喪失したことで、成人後も同様の低賃金労働以外に選択肢がない。貧困から抜け出せず、犯罪に手を染める者が後を絶たなかった。
貧困と、それに続く犯罪や暴力の連鎖を断ち切るには、教育と、子供が働かなくても食べてゆける経済的な余裕が不可欠だ。
あの冬の大火と、ネミュス解放軍の侵攻で、児童労働を当然のものとする事業所は、ほぼ姿を消した。
現在は、就労場所が大幅に減り、大人でさえ職にあぶれた者が多い。
子供が働く余地がなくなったことで学校に通えるようになったのは、皮肉としか言いようがなかった。
「大人が安定して働ける場所が少しでも増えれば、子供たちが学びやすくなるのです。開業準備でお忙しい時に恐縮ですが、今後の聖なる星の道に繋がる道筋を示す道標を作っていただけませんか?」
「きちんと学んだ人が増えれば、将来、有能な人材を確保しやすくなりませんこと?」
事業の規模が大きくなれば、工場内での食品製造とは別に事務や経理、営業、在庫管理、仕入れ、清掃など、担当業務を分ける必要が生じる。
清掃業務ひとつとってみても、食品衛生や公衆衛生、感染症対策や各種洗剤の特性などの知識を持ち、それらに基づいて正しく実行できる者の方が、仕事の質が高くなるのは当然だ。
「えぇっと……それも、みんなと相談してきます」
「私も、可能な限りお手伝い致します。何なりと遠慮なくご相談下さい」
ウェンツス司祭の宣言で、この場はひとまずお開きになった。
☆手書きの素っ気ないメモ……「1450.置かれた手紙」参照
☆仮設住宅にきちんとした台所を作る話し合い……「1451.台所を作ろう」参照
☆校舎が再建されてから……「894.急を知らせる」参照
☆あの冬の大火……「0054.自治区の災厄」「0055.山積みの号外」「212.自治区の様子」~「214.老いた姉と弟」参照
☆ネミュス解放軍の侵攻……「893.動きだす作戦」~「906.魔獣の犠牲者」「0937.帰れない理由」~「0939.諜報員の報告」参照




