0149.坂を駆け下る
昼過ぎに道標が見えた。
ここで降りれば、ゼルノー市の穀倉地帯ゾーラタ区に出る。ゾーラタ区は民家が少ないからか、見える範囲に空襲の被害はなかった。
このまま山中を西進し、クルブニーカ市で降りた方がいいのか。
クルブニーカ市も山裾は農地だ。空襲に遭わなかった気がする。
アミエーラはこの辺りに土地勘がなく、次の分岐がどこにあるか知らなかった。
堅パンを齧りながら考える。
ニェフリート河の橋が落ちていれば、どこへも行けない。
やはり山を歩いて河を越え、それから下山した方がよさそうだ。
遠目には、もうクルブニーカ市が見える。下山する道があれば、今日中にでも市内に出られるだろう。
腰を上げ、荷物を背負う。
視界の端で何かが動いた。
雑妖だろうと思ったが、何となくそちらに目を向ける。
「……!」
木立の間で、雑妖とは異質な双眸が輝く。
それが何であるか認識する前に膝が震えた。本能的な恐怖で、目を逸らすこともできない。
力が抜け、へたり込みそうになる足を励まして後退る。
それが、斜面の岩陰からのっそり這い出る。蛙に似た頭に長い首が続いた。全体がぬらぬらとして泥の塊のようだ。
雲が流れ、枝葉の隙間から日が射す。
異形の下には影が出来なかった。
この世での存在があやふやながら、たくさんの足がやや膨らんだ胴をしっかり支える。
……夜の……?
姿は見なかったが、アミエーラは直感的に雨の中、小屋の周囲を歩き回ったモノだと思った。
魔物の動きは緩慢だが、彼女を獲物と定めたのか一歩ずつ近付く。
アミエーラは魔物が近付いた分、後退った。
異様に大きな目が、獲物を見つけた喜びに輝く。
……逃げなきゃ……早く!
気力を振り絞り、魔物に背を向けた。落ち葉を踏む音が追ってくる。
アミエーラは声にならない叫びを上げ、山道を駆け下った。
荷物の重さも気にならない。
濡れ落ち葉に何度も足を取られ、石に躓き、転びそうになっては木々や岩にしがみつく。
何も考えられず、半ば滑り落ちるように曲がりくねった坂を下る。
振り向く余裕はない。息が乱れ、足がもつれる。
気ばかり急いて、肝心の足は泥の中を行くように重かった。
「あ……ッ!」
岩に積もり、水を含んだ落ち葉に足が滑った。身体が宙に投げ出される。
山の急坂が不思議な程ゆっくり、視界を流れる。
坂の両脇で雑妖の塊が嘲笑うかのように波打つ。
とても長く感じたが、実際には、受け身をとることも出来ない一瞬だ。
声を上げた直後、数メートル下の大木の幹に叩きつけられた。
激痛に呼吸が止まる。
湿った落ち葉の上に投げ出され、細く息を吐いた。
魔物はまだ、坂のかなり上をのっそり歩く。
アミエーラは起き上ろうと、地に両手をついた。
「……ッ!」
息が詰まる程の激痛に喉が締め付けられ、涙も出ない。左腕が力を失い、だらりと垂れた。
……逃げなくちゃ。
右手を根につき、幹に這わせてそろりそろりと身を起こす。
あちこち痛むが、足は動くようだ。無理矢理一歩を踏み出すと、アミエーラを取り巻く雑妖が退がった。
登山道に戻る。
一歩毎に襲う激痛に歯を食いしばり、再び坂を下る。
口の中に血の味が広がり、唇から赤い滴が落ちる。アミエーラは切れた唇に構わず、足下だけを見て前に進んだ。
逃げる自分の足音か。
追う魔物の足音なのか。
雑妖が落葉を鳴らすのか。
落葉が湿った音を立て、その度に心臓が胸の奥で別の生き物のように激しく拍動する。冬とは言え、日が出たからか、魔物の動きは鈍く、転倒しても追い付かれずに済んだ。
どのくらい下ったのか、不意にアミエーラの行く手に木製の柵が現れた。
……通行止め……? 嘘でしょ?
木の柵は登山道を完全に塞ぐ。
道の両側では、大きな岩が壁のように聳える。その周囲の斜面は急で、怪我と荷物がなくても攀じ登れそうにない。
落葉を踏む湿った音が近付いてくる。
アミエーラは柵を押してみた。中央が僅かに動く。
向こう側に閂があるのだ。
気付いた瞬間、右手を柵の隙間に入れ、閂を掴んだ。右……いや、左だ。閂は思いがけず滑らかな動きで横に抜けた。勢い余って止め具が高い音を立てる。
すぐ腕を抜き、扉に身を滑り込ませた。
震える手で閂を掛け直し、顔を上げる。
魔物が傍らの岩から見下ろす。長い首をこちらに伸ばし、蛙のように平たい顔を笑みの形に歪める。
アミエーラは後退った。
魔物の口から釘のような歯が覗く。泥を捏ねたような体躯は大人三人程もある。こんな木の柵で持ち堪えられるのか。
魔物は柵に目もくれず、岩から身を躍らせた。思わず、両目をきつく閉じる。
山裾に口真似できそうもない咆哮が響き渡った。
恐る恐る目を開ける。
魔物が登山道……柵の向こう側でもがく。
岩の上からアミエーラ目掛けてまっすぐ跳んだ筈だ。何をどう間違えれば、そんな所へ落ちるのか。
考える余裕はなかった。
アミエーラは柵に背を向け、痛む身体を引きずってその場を離れた。




