0147.霊性の鳩の本
三人は、警察署の正面玄関から大通りに出た。
細かい瓦礫にタイヤ跡がある。ここで何度もUターンしたようだ。
……車で移動したってコトは……橋……渡れるのか?
期待に胸が高鳴る。
道なりに歩き、消防署と区役所も覗いてみた。
消防署は防火標語の看板、区役所は玄関前に置いた椅子に警察と同じ内容の貼り紙がある。
どちらも、住民が身を寄せた形跡はあるが、今は無人だ。
「まぁ、でも、ここまで来れば車が通れますし、思ったより楽そうですね」
ロークは歩きながら努めて明るい声で言った。
大人二人は曖昧な声を出すだけで反応が薄い。
ロークは訝しく思いながらも、タイヤ跡を踏んで先へ進んだ。
ゼルノー市役所は、前庭にも避難民が溢れたらしい。
あちこちに生活の痕跡がある。元々あったゴミ箱周辺にゴミの山が築かれ、今は雑妖の巣だ。
建物は原型を留めるが、ここも今は無人だ。
玄関ホールを入ってすぐの所に移動式の小さな掲示板が置いてある。貼り紙は、これまで見たのと同じで、日付だけが一日遅く「二月五日現在」だ。
ガラス片は隅に寄せてある。
書き物台の下に取り残されたウサギのぬいぐるみが一匹。
市役所は、空襲後もしばらく業務を続けたのか、カウンター内は少し片付けてあった。
隣の区民図書館に入る。
窓に近い書架が倒れ、本は散乱するが、【耐火】や【魔除け】はまだ有効で、他に異状はない。
風がないだけで随分、暖かく感じる。もしかすると、これも魔法の効力なのかもしれない。
市役所と同じキャスター付きの小さな掲示板に例の貼り紙もあった。
アウェッラーナが、受付カウンター脇の案内板を見る。ロークも湖の民の隣に立ち、魔道書コーナーを探した。
「二階……か」
ソルニャーク隊長が呟き、階段へ向かう。
ロークは驚いて後を追った。
キルクルス教徒の隊長が、こんな用件で率先して動くとは思わなかった。
アウェッラーナも同感らしく、階段を昇ってきた顔に困惑が満ちる。棚の表示に素早く視線を走らせ、すぐに目当ての本がある書架に駆けて行った。
ロークも、アウェッラーナが居る書架の前に立った。【霊性の鳩】学派の本が収めてある。入門書を手に取りパラパラめくってみた。
【霊性の鳩】学派の術は、日々の生活で使うものが多い。
誰もが必要とし、修得する術だ。
一般の術者で、この学派の徽を身に着ける者は居ない。
強力な術はないが、その用途は多岐にわたる。
数は膨大で、全てを修められる者は滅多に居ない。大部分を修め、或いは新しい術を開発した導師だけが、【霊性の鳩】の徽を着ける。
ロークは本を閉じて、書架をざっと見た。この学派だけで書架がふたつ埋まる。
数が多過ぎて分類の仕方が定まらないのだろう。
大衆向けの実用書風の背表紙の数々にロークは苦笑した。アウェッラーナが手にするのは、「楽々引越し【霊性の鳩】活用術」だ。
「じゃあ、すぐ書き写しますから、少し待ってて下さい」
「えっ? その本、借りて行かないんですか?」
アウェッラーナは中央の机に向かう足を止めず、ロークに答えた。
「魔法関係の本には大抵、【渡る白鳥】学派の【制約】とかが掛かってるんですよ」
「……せいやく?」
「勝手に持ち出すと、呪いが発動します」
「信用がないのだな」
ソルニャーク隊長が苦笑を洩らす。
「……色々あるんですよ」
アウェッラーナは席に着き、コートのポケットから手帳とペンを取り出した。
ロークはもう一度、改めて書架を見た。
掃除、洗濯、皿洗い、料理、術を使ったレシピ、護身、連絡、移動、引越し、模様替えと言った用途別の本がずらりと並ぶ。「夏を快適に」など季節別の活用法、別学派の術との組合せシリーズ、誰でも使える術シリーズもある。
ロークは、「誰でも使える」の文字に釘付けになった。
レノの求める答えが全十五巻にまとまる。
子供向けの「はじめてのまほう」シリーズには、「ハトのまほうで、おうちのおてつだいをしよう」と、用途別の魔法の種類とその呪文、注意点などが、簡単な言葉で解説してある。
よくある失敗例と、正しい方法を物語形式で書いた絵本も、たくさんある。
子供に魔法の使い方を教える躾の本も、数えきれないくらいあった。
……カンケーないと思って気にしなかったけど、魔法使いの人たちにとっちゃ、フツーに生活の一部なんだな。
同じ国に住んで、普段は同じ言葉を話し、教室では一緒に机を並べる。
こんなに身近に居るのに、とても遠い。
ロークは、護符を握りしめた。
ヴィユノークは魔法の護符を作ってくれた。この護符は、ロークを何度も守ってくれた。なのに、魔法使いと言う気がしなかった。作用力がなくても、彼は立派に魔法使いだった。
ロークは、魔法使いのことを何も知らない。知ろうともしなかった。
ヴィユノークは、魔力はあっても作用力がないことで、しょっちゅう愚痴を零した。卒業後の進路を【編む葦切】学派の職人に決めた時、珍しく真剣に語った。
ずっと、作用力がないことを悩んでいたのではないか。
今なら、そう思える。
魔法が使えないことで、命が脅かされる今なら、ヴィユノークの苦しみがよくわかる。
公共の建物は空襲でも焼けず、避難民を一時保護した。
多分、いつもの生活でも、ロークは知らずに魔術の恩恵を受けていた。
改めて思い起こすと、いつも【魔除け】で守られていたのだ。
この土地では、人の暮らしと命を守る為に、魔法が必要なのだ。
それを一括りに「悪しき業」と呼ぶことに違和感を覚えていた。
……でも、じいちゃんたちに怒られるから、ちゃんと知ろうとしなかった。魔法で守られてるって、気付かないフリをしてたんだ。
今まで何をしていたのか。自己嫌悪に心が沈む。
「レノ君が求めているのは、これだろう。後でわかりやすいように、机に出してあげるといい」
ソルニャーク隊長が、誰でも使えるシリーズの護身の巻を指差す。流石に、自分で魔道書に触ることには、抵抗があるらしい。
ロークはその一冊を抜き取り、アウェッラーナの傍へ行った。
学派の詳しい説明は「野茨の環シリーズ 設定資料」の「用語解説07.学派」をご参照ください。
☆警察と同じ内容の貼り紙……「0146.警察署の痕跡」参照
☆ヴィユノークは、魔法の護符を作ってくれた……ヴィユノーク「0034.高校生の嘆き」「0068.即席魔法使い」、護符を作った「0131.知らぬも同然」参照
☆護符は、ロークを何度も守ってくれた……「0070.宵闇に一悶着」「0071.夜に属すモノ」「0096.実家の地下室」「0131.知らぬも同然」参照




