1393.遠い島の墓所
年が明け、印暦二一九三年を迎えた。
だが、魔哮砲戦争が終わる兆しは全く見えない。
曇天に横たわる湖面は鈍色で、湖北地方から吹きつける風にうねる。呪医セプテントリオーは、ネモラリス島北岸からラキュス湖を望み、心が沈んだ。
昨年、アーテル軍の基地が全て破壊された。
現在、ネモラリス領内には「戦場」と呼ばれる場所がない。一方のアーテル領内では、秋頃から何者かによる爆破が相次ぎ、通信途絶に陥った上、多数の魔獣が出現し、さながら戦場の様相を呈する。
アクイロー基地は、二一九一年夏に警備員オリョールら、ネモラリス人の武闘派ゲリラが壊滅させたが、そろそろ復旧する可能性が高い。
運び屋フィアールカたちの報告書によると、ゼルノー市のグリャージ港は全面復旧した。リストヴァー自治区への物資輸送の為だが、まだ立入制限が解除されない為、住民は帰還できない。港湾労働者らも、夕方になれば魔道機船や【跳躍】で安全な地域まで退避する。
他の都市でも、防壁などのインフラ復旧工事がある程度は進んだらしいが、そこを再び空襲されてはひとたまりもない。
事は、清めの闇を軍事利用する研究を推し進め、魔哮砲として実戦投入したネモラリス一国がその責めを負って滅びれば済む問題ではない。
ファーキルたちが、ラキュス湖に面する国々の観測データを取りまとめた。
半世紀の内乱中、継続して水位が下がり続けた。
和平合意後の三十年でやや持ち直したが、ディケア共和国の内戦終結とキルクルス教化によって再び下がり、魔哮砲戦争の勃発で更に低下が進んだ。
……このままラキュスの水位が下がり続ければ、旱魃の龍が甦る。
どこまで下がればそうなるのか。
セプテントリオー・ラキュス・ネーニアも知らない。
だが、科学的な知見に照らせば、涙の湖とも呼ばれる世界最大の塩湖が、一部でも、長期に亘って湖底を晒した場合、広域に塩害をもたらすことは容易に予測できる。塩害によって農地や森林が荒廃すれば、チヌカルクル・ノチウ大陸西部は、太古と同じ砂の海に戻ってしまう。
……気は進まないが、やはり、オーストロフ島に行かねばならんのか。
あの日を思い出し、胸が詰まった。
出たのは涙ではなく重い溜め息だ。
オーストロフ島には、ラキュス・ネーニア家直系の祖神ラクテアを祀る神殿がある。
湖の女神として崇められるパニセア・ユニ・フローラは呪医で、直系の子孫は居ない。妹のラクテアは初代の神官として姉の【魔道士の涙】である青琩と自らの家庭を守り、多くの子を残して天寿を全うした。
遺体を焼いた後に残された【涙】は碧玲と呼ばれ、姉のパニセア・ユニ・フローラの青琩と同様、水を産み出す術を掛けられ、オーストロフ島の祖神神殿に安置された。
ラキュス・ネーニア家の者は、死して後その【涙】をフナリス群島の聖地ラクリマリスの大神殿か、直系祖神が待つオーストロフ島の祖神神殿に安置され、ラキュス湖の水を支える。
ラクリマリスの大神殿は、主神フラクシヌスの血を引くラクリマリス王家の墓所でもあるが、オーストロフ島の祖神神殿は、湖の民ラキュス・ネーニア家の者だけが納められる。
両家の者は死後も、魔力が尽きて【魔道士の涙】が砕け散る日まで、湖水維持の為に休みなく働き続けるのだ。
祖神神殿に参拝した生者が祈りと魔力を注げば、その分【魔道士の涙】が砕ける日を先延ばしにできる。
セプテントリオーは、半世紀の内乱中に生命を奪われた親兄弟姉妹の苦しみを長引かせるような気がして、葬儀以来、一度もオーストロフ島の土を踏まなかった。
祈りと魔力を捧げ、湖の女神パニセア・ユニ・フローラの青琩を支えるのは、どこの神殿からでも可能だ。だが、一部は魔力を移送する魔法陣の動力として消費されてしまう。
オーストロフ島は位相をずらした場所にあり、一般の船舶では地図上の同一座標に行っても、島影を見ることさえ叶わない。無論、盗掘を防ぐ為、【跳躍】避けの結界も厳重だ。【跳躍】許可地点は島のごく僅かな場所にしかない。
立入る資格を持つのは、ラキュス・ネーニア家の血族だけだ。
ラキュス・ネーニア家の歴代当主は、いつもここで祖神ラクテアに祈りと魔力を捧げ、湖水を維持してきた。
シェラタン当主は、ネモラリス共和国の首都クレーヴェルで、ネミュス解放軍によるクーデターが勃発してからは、その力が悪用されぬよう身を隠した。
セプテントリオーは、聖地ラクリマリスの大神殿で祈りを捧げる当主の姿を確認したが、その件は、ネミュス解放軍を率いる羽目になったウヌク・エルハイア将軍にも、ネモラリス政府軍の指揮を執るアル・ジャディ将軍にも知らせなかった。
武力に依らず平和を目指す仲間たちに固く口止めして伝えただけだ。
……親戚より、他人……それも年端もゆかぬ陸の民の方が信用に値するとはな。
何とも言えぬ気持ちでラキュス湖に背を向け、南を見遣る。国道を挟んで小村があり、周辺には麦が芽吹いた畑が広がる。背後の森には針葉樹が青々として、遠景のウーガリ山脈はうっすらと雪を戴く。
アカーント市の東に位置するこの村は、疫病で壊滅した西とは全く別世界のように平穏な新年を迎えた。
今回は無事だったここも、また別の病が流行った時は、どうなるかわからない。
……少しでも、私にできることを。
無医村で足留めされぬよう白衣を脱ぎ、【青き片翼】学派の徽章を懐に仕舞って呪医であることは伏せる。
セプテントリオーは、いつ、祖神の島へ渡るべきか、決めかねた。
☆爆破が相次ぎ、通信途絶……「1218.通信網の破壊」~「1222.水底を流れる」「1223.繋がらない日」~「1225.ラジオの情報」参照
☆多数の魔獣が出現……「1290.工場街の調査」~「1292.修理できない」「1334.武官らの働き」「1341.何の為に働く」「1343.低調な投票率」~「1346.安定には遠く」参照
☆アクイロー基地……「459.基地襲撃開始」~「466.ゲリラの帰還」参照
☆他の都市でも、防壁などのインフラ復旧工事がある程度は進んだ……「1175.役所の掲示板」「1257.不備と不手際」「1357.変化した団体」参照
☆清めの闇……「497.協力の呼掛け」「580.王国側の報道」「581.清めの闇の姿」「587.ハンパな情報」参照
☆軍事利用する研究……「247.紛糾する議論」「248.継続か廃止か」参照
☆ネモラリス一国がその責めを負って滅びれば済む問題ではない……「751.亡命した学者」~「753.生贄か英雄か」参照
☆ラキュス湖に面する国々の観測データ……「821.ラキュスの水」参照
☆ディケア共和国の内戦終結とキルクルス教化……「874.湖水減少の害」「0938.彼らの目論見」「1087.成行きの果て」参照
☆セプテントリオー・ラキュス・ネーニア……「684.ラキュスの核」「685.分家の端くれ」「902.捨てた家名で」「903.戦闘員を説得」参照
☆あの日……「359.歴史の教科書」「685.分家の端くれ」参照
☆パニセア・ユニ・フローラの青琩/水を産み出す術……「684.ラキュスの核」参照
☆一部は魔力を移送する魔法陣の動力として消費……「821.ラキュスの水」参照
☆聖地ラクリマリスの大神殿で祈りを捧げる当主の姿を確認……「684.ラキュスの核」「685.分家の端くれ」参照
☆武力に依らず平和を目指す仲間たちに固く口止めして伝えた……「874.湖水減少の害」参照




