1391.二年目の舞台
夏の都のパニセア・ユニ・フローラ神殿には、夜明けのかなり前から大勢の参拝客が詰め掛けた。
陸の民も湖の民も、力ある民も力なき民も、すべてひとしい水の同胞として、ラキュス湖と向かい合う。
あちこちで【灯】が点され、日の出前でも歩くのに支障はない。
岸からやや離れた所に石の柱が立つ。
円柱は、フラクシヌスの大樹が浮き彫りにされ、背景にスツラーシの岩山が線刻されたものだ。
柱の上には何もない。明けゆく空をただ一本で支える。
「前はあんなにたくさん枝が見えなかったのに」
「そう言われてみれば、随分、水嵩が減ったな」
「アーテルが、ネモラリスに戦争吹っ掛けてから急に減って、戻らないのよ」
アミエーラは、大伯母カリンドゥラに手を引かれて舞台へ向かう途中、幾つもの不安を耳にした。
「あの柱の下の方には、旱魃の龍も彫刻してあるのよ」
「えっ?」
大伯母の声に耳を疑った。
「目印よ。旱魃の龍の姿が水面に出るまで水位を下げないように……戒めね」
「戒め……」
十二月、ピアノ奏者スニェーグが、ネモラリス島北東部の小都市を巡り、情報収集とミニライブを行った。
どうにか麻疹ワクチンの輸入に漕ぎつけたものの、間に合わなかった村々は、大変な惨状だと言う。疫病に罹らなかった人々の不安と、平和を求める声が高まり、神殿へ足を運ぶ回数が増えたのは、喜ぶべきか、悲しむべきか。
今日は、アミエーラがアミトスチグマ王国へ来て、二度目の新年コンサートが行われる。
昨年は、内陸にあるパテンス市のフラクシヌス神殿だった。二回目の今年は、アミトスチグマ王国の首都で、去年の十数倍の観客を前に歌う。
広々とした神殿脇の広場に舞台が設えられ、アミトスチグマ公共放送管弦楽団が、楽器の最終調整に勤しむ音が漏れ聞こえる。
アミエーラはこの一年、小さな舞台を幾つも重ね、インターネットも通じて多くの人に平和の願いを謳ってきた。
同じ「数万人の聴衆」でも、画面越しに少しずつと、一度に直接顔を合わせるのでは、緊張感がまるで違う。
「いつも通りにすれば大丈夫よ」
平和の花束のリーダーが、勝気な瞳を輝かせて、詰め掛けた参拝客兼観客の群を眺める。アルキオーネの瞳は、夜明け前の空と同じだ。恐れや緊張の色は微塵もなく、期待と喜びが星々のように煌めく。
アミエーラより少し年下の彼女は、魔哮砲戦争が始まるまで、アーテル共和国で国民的な人気を博した歌手だった。
歌姫の自信は、平和の花束のタイゲタ、アステローペ、エレクトラも同様に漲らせる。
黒髪の歌姫に手を引かれ、舞台裏に仮設された控室に入った。
アミエーラの他、ソプラノ歌手のニプトラ・ネウマエこと大伯母カリンドゥラ、同じくソプラノ歌手のオラトリックス、平和の花束の四人が慌ただしく仕度する。
他の部屋には、この神殿の附属合唱団、夏の都大学合唱団、そして、難民キャンプで暮らすネモラリス人の有志が、それぞれ与えられた場所で出番を待つ。
針子の後輩サロートカも来たが、彼女は衣裳係なので、舞台には立たない。この部屋と難民の部屋で衣裳を調整して回り、今が一番忙しい。
「やっぱり、私も手伝……」
「いいですいいです。衣裳が乱れますから、今日は歌手に専念して下さい」
サロートカは、裾を直す手を止めずにアミエーラを遮って、お針箱片手に難民の部屋へ行った。
アミエーラは、まだ【編む葦切】学派の職人を目指すか、【歌う鷦鷯】学派の歌い手に専念するか、決められなかった。
何年も掛けて身につけた縫製技術と、新たに学んだ魔法の歌。
どちらか一方を採れば、もう一方を捨てなければならない決まりはないが、どちらかに力を入れれば、もう一方はどうしても疎かになってしまうだろう。
……私、何者になりたいんだろ?
今日は印暦二一九三年の一月一日。
後二カ月で、魔哮砲戦争の開戦から二年だ。
ネーニア島の街や村が焼き払われ、大勢が戦争難民として国外に流出した。国内に留まる者も元の居住地に住めなくなり、比較的安全な遠方の地へ逃れた。クーデターまで勃発し、首都クレーヴェルから逃れた人々も居る。
命以外すべてを喪った人々は、新たな居場所で暮らしを立て直し始めたが、そこも、安心して居られるワケではなかった。
魔物や魔獣、慣れない仕事での負傷、流行病など、アーテル軍の攻撃以外の原因であっけなく命を落とす。
恐ろしい炎から守った命が、戦場から遠く離れた場所で次々と失われてゆく。
あの命は、戦争さえなければ、元の場所に居られたなら、何も奪われなかったなら、消えずに済んだ筈だ。
……私に何ができるの?
動画でワクチン接種費用の寄付を呼掛けた時は、予想以上の額が集まった。
顔も知らぬ人々の善意が、金額で「数値化」される。パソコンの画面に表示された数値を見た瞬間、感謝と戸惑いが混じって、どんな顔をすればいいかわからなくなった。
今日は、一日中舞台に携わる。
三部構成で、アミエーラの出番は少ないが、王都ラクリマリスでの慈善コンサートと同じくらいの規模だ。
開演時間が近付き、舞台袖へ向かう。
今日も、インターネット中継をする。ラゾールニクとネモラリス建設業協会の有志が、通路のいい位置で三脚を立てて小型カメラを構え、開演を待つ。
王都にはなかったテレビジョン中継とやらもあると聞いた。
客席に目を凝らすと、大型の撮影機材らしきものを抱えたアミトスチグマ人が、客席内に設けられた台上に居るのを何組もみつけた。アミトスチグマ公共放送が、各家庭に映画のように映像を送るのだ。
支援者のマリャーナ宅には、テレビジョンの受信機がなく、ラゾールニクから教えてもらうまで全く知らなかった。インターネットで充分と言うのが、彼女の弁だ。
アミトスチグマ王国に来て一年以上経つが、まだまだ知らないコトだらけで、自分の世界の狭さを思い知らされた。
「そろそろ上がって下さい」
「夜明けの祈りが始まります」
係員の呼ぶ声で、舞台袖の空気が冬の夜明けと同じに引き締まった。
☆情報収集とミニライブ……「1370.カフェの演奏」参照
☆どうにか麻疹ワクチンの輸入に漕ぎつけた……「1195.外交官の連携」「1228.安全な場所は」「1249.病の情報拡散」「1265.お役所の障壁」「1267.伝わったこと」「1268.横流しを依頼」「1286.接種状況報告」参照
☆間に合わなかった村々は、大変な惨状……「1324.荒廃した集落」「1325.消滅した集落」参照
☆神殿へ足を運ぶ回数が増えた……「1330.連載中の手記」参照
☆昨年は、内陸にあるパテンス市のフラクシヌス神殿……「813.新しい年の光」参照
☆動画でワクチン接種費用の寄付を呼掛けた……「1267.伝わったこと」参照
☆王都ラクリマリスでの慈善コンサート……「1005.初めての樫祭」「1009.自治区の司祭」「1010.特番に託す心」参照
☆クーデターまで勃発……「599.政権奪取勃発」~「602.国外に届く声」参照




