0141.山小屋の一夜◇
どのくらい眠ったのか、アミエーラはふと目が覚めた。
寒さのせいではない。
何かの気配で目が覚めたのだ。
雨音はまだ続いていた。
小屋の中を見回す。
真っ暗で何も見えない。雑妖も視えない。
気配を感じる方へ視線を巡らせる。
朽ちた屋根の隙間から、無数の目がアミエーラを見下ろす。
雨の夜に光る眼はこの世の獣のものではない。獣である筈がなかった。
もし、獣なら、その顔や身体に対して目が大き過ぎる。
びしゃり……ぬしゃり……
びしゃり……ぬしゃり……
雨音に混じり、重い音が小屋の周囲を回る。
アミエーラは、どうやって身を守ればいいか考えた。
物理的には、錆びた鎌くらいしか武器になりそうな物がない。外へ逃げるのは危険だ。
幸い、今はまだ、小屋の結界を突破されそうな様子はない。
……大丈夫。【魔除け】があるから……【魔除け】があるから、大丈夫よ。
アミエーラは、服越しに【魔力の水晶】を入れた袋を握りしめた。聖者キルクルスではなく、魔法に縋る。
「真名は忘れちゃいけないし、他の誰にも知られちゃいけないんだよ」
幼いあの日、石碑の前で祖母に言われた言葉が甦る。
……私はイフェイオン。イフェイオン・ユニフローラム・ステルラ・カエルラ。
アミエーラは、心の中で自分の真名を唱えた。
闇の中で、改めて家族を思う。
この真名を付けたのは、母方の祖母だ。
物心つく前に亡くなった母は覚えていない。
父は力なき民で、敬虔なキルクルス教徒だ。この辺りの習慣として、真名と呼称を付けることに反対しなかっただけでも、大きな譲歩だったのだろう。
呼称のアミエーラは「宿り木」と言う意味だ。どこからか種子が運ばれ、大樹の枝に根付く異質な常緑樹。祖母はどんな思いで、孫娘の呼称を「宿り木」と名付けたのか。
……お祖母ちゃん。
なんでもない日々の暮らしでは、聖者キルクルスへの信仰が心の支えだった。
この山の中で魔物や雑妖に脅かされる今、アミエーラを守るのは、小屋と護符の【魔除け】の魔法だ。
聖者への信仰は、今、目の前にある脅威からは守ってくれない。
今まで見ないフリをしてきたことに、イヤでも向き合わされる。
闇の中、自分と魔物が対峙する。
……私は魔女……魔女のイフェイオン・ユニフローラム・ステルラ・カエルラ。力なき民なんかじゃない!
小鳥の囀りが聞こえる。
気が付くと、辺りは明るくなっていた。雨音も止んだ。
アミエーラは身を硬くして戸口へ視線を向けた。閉まったままで何も居ない。あの音も聞こえない。
恐る恐る視線を上げる。屋根の隙間にも、何も居なかった。
ホッとして立ち上がる。
空き瓶には、三分の一くらい雨水が溜まった。しっかり蓋をしてリュックの横に置く。
戸口を細く開け、アミエーラは息を呑んだ。
ぬかるんだ土が乱れている。
泥に刻まれたのは、人でも獣でもない足跡だ。小屋を囲んで幾重にも重なり、何周もする。
雲の切れ間から朝の光が射し、水溜まりが輝いた。
……夢じゃ……なかった。
震えながら外へ出た。作業場は日当たりがよく、雑妖は居ない。
足跡で乱れた所以外は、濡れ落ち葉が地に貼り付き、霜が降りていた。白く輝く霜を踏み、急いで裏へ回って用を足して小屋に戻る。
こんな所に長居はできない。
朝食を口に押し込み、瓶の雨水を少し飲んで荷物を担ぐ。
……これ、小屋もこんなだし、もう誰も要らないよね?
アミエーラは、半ば自分に言い聞かせると、壁に掛かった鎌を一本取り、小屋を後にした。錆びた鎌でも素手よりはマシだ。
☆小屋の中……「0134.山道に降る雨」参照
☆真名……「0012.真名での遺言」「0015.形勢逆転の時」参照
☆幼いあの日、石碑の前……「0102.時を越える物」参照
☆空き瓶には、三分の一くらい水が溜まった……「0134.山道に降る雨」参照
★第七章 あらすじ
あれから一週間が過ぎた。
地元民ロークたち十人は、放棄された国営ラジオの支局で最後のニュース原稿を発見した。
アミエーラは一人、雨の山道を行く。魔装兵ルベルは、防空艦で哨戒の任務に就いた。
※ 登場人物紹介の一行目は呼称。
用語と地名は「野茨の環シリーズ 設定資料」でご確認ください。
【思考する梟】などの術の系統の説明は、「野茨の環シリーズ 設定資料」の「用語解説07.学派」にあります。
★登場人物紹介
◆湖の民の薬師 アウェッラーナ 呼称は「榛」の意。
湖の民。フラクシヌス教徒。髪と瞳は緑色。
隔世遺伝で一族では唯一の長命人種。外見は十五~十六歳の少女(半世紀の内乱中に生まれ、実年齢は五十八歳)
父と姉、兄、甥姪など、身内で支え合って暮らす。実家はネーニア島中部の国境付近の街、ゼルノー市ジェリェーゾ区で漁業を営む。
ゼルノー市ミエーチ区にあるアガート病院に勤務する薬師。
魔法使い。使える術の系統は、【思考する梟】【青き片翼】【漁る伽藍鳥】【霊性の鳩】
真名は「ビィエーラヤ・オレーホヴカ・リスノーイ・アレーフ」
◆パン屋の青年 レノ
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。十九歳。濃い茶色の髪の青年。
ネーニア島のゼルノー市スカラー区にあるパン屋「椿屋」の長男。
両親と妹二人の五人家族。パン屋の修行中。
レノは、髪の色と足が速いことからついた呼称。「馴鹿」の意。
◆ピナティフィダ(愛称 ピナ) 呼称は生まれた季節に咲く花の名。
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。中学生。二年三組。濃い茶色の髪。
レノの妹、エランティスの姉。しっかりしたお姉さん。
◆エランティス(愛称 ティス) 呼称は生まれた季節に咲く花の名。
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。小学生。五年二組。濃い茶色の髪。
レノとピナティフィダの妹。アマナの同級生。大人しい性格。
◆工員 クルィーロ 呼称は「翼」の意。
力ある陸の民。フラクシヌス教徒。工場勤務の青年。二十歳。金髪。
パン屋の息子レノの幼馴染で親友。ゼルノー市スカラー区在住。
両親と妹のアマナとの四人家族。隔世遺伝で、家族の中で一人だけ魔力がある。
魔法使いだが修行を怠り、使える術の系統は【霊性の鳩】が少しだけ。
機械に興味があるので、ゼルノー市グリャージ区のジョールトイ機械工業の音響機器工場に就職。
◆アマナ 呼称は生まれた季節に咲く花の名。
力なき陸の民。フラクシヌス教徒。クルィーロの妹。金髪。
小学生。五年二組。エランティスの同級生。ゼルノー市スカラー区在住。
◆少年 ローク 呼称は「角」の意。
力なき陸の民。商業高校の男子生徒。十七歳。ディアファネス家の一人息子。
ゼルノー市セリェブロー区在住。家族とは相容れなくなり、家出する。
祖父たち自治区外の隠れ教徒と自治区の過激派が結託して、テロを計画していることを知りながら、漫然と放置してしまった。
保身に走り、後悔しがち。
◆お針子 アミエーラ 呼称は「宿り木」の意。
陸の民。キルクルス教徒。十九歳の女性。金髪。青い瞳。仕立屋のお針子。
工員の父親と二人暮らし。祖父母と母と弟妹は病死。弟妹はいずれも幼い頃に亡くなり、人数も憶えていない。泥棒が同情するレベルの赤貧。
魔力はあるが、魔法が使えない。
母方の祖母が力ある民。隔世遺伝で魔力を持つが、魔法を教わっておらず何もできない。
◆仕立屋の店長 クフシーンカ
力なき陸の民。キルクルス教徒。一人暮らしの老婆。気前がいい。
リストヴァー自治区の団地地区で、仕立屋を経営している。
アミエーラの祖母の親友。ずっとお互いに助け合ってきた。
◆フリザンテーマ 呼称は「菊」の意。
力ある陸の民。フラクシヌス教徒。アミエーラの祖母。クフシーンカの幼馴染で親友。
力なき陸の民でキルクルス教徒の夫と結婚。内戦終了後はリストヴァー自治区に移住した。
自治区では、魔法使いであることを隠す為、知り合いのいないバラック地帯で生活した。
◆カリンドゥラ
力ある陸の民。長命人種。
アミエーラの祖母フリザンテーマの姉。仕立屋の店長クフシーンカの幼馴染。
無事なら現在も、ネモラリス島に住んでいる筈。
◆少年兵 モーフ 呼称は「苔」の意。
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍の少年兵。十五~十六歳くらい。
リストヴァー自治区のバラック地帯出身。
アミエーラの近所のおばさんの息子。祖母と母、足が不自由な姉とモーフの四人家族。
父は、かなり前に工場の事故で亡くなった。
以前は工場などで下働きをしていた。自分の年齢さえはっきりしない。
貧しい暮らしに嫌気が差し、家出してキルクルス教徒の団体「星の道義勇軍」に入った。
◆隊長 ソルニャーク 呼称は「雑草」の意。
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍・第三小隊の隊長。モーフたちの上官。おっさん。
知識人。冷静な判断力を持つ。
キルクルス教徒だが、狂信はしていない。自爆攻撃には否定的。
陸の民らしい大地と同じ色の髪に、彫の深い精悍な顔立ち。空を映す湖のような瞳は、強い意志と知性の光を宿す。
◆元トラック運転手 メドヴェージ 呼称は「熊」の意。
力なき陸の民。キルクルス教徒。星の道義勇軍の一兵士。おっさん。
リストヴァー自治区のバラック地帯出身。
以前はトラック運転手として、自治区と隣接するゼルノー市グリャージ区の工場を往復していた。
仕事で大怪我をして、ゼルノー市ジェリェーゾ区にある中央市民病院に入院したことがある。
◆魔装兵ルベル 呼称は「赤」の意。髪の色からそう呼ばれる。
力ある陸の民の男性。フラクシヌス教徒。兵学校を卒業して数年の若い兵。
ネモラリス政府軍の魔装兵。【飛翔する蜂角鷹】学派の術を修め、偵察などを主な任務とする。
ネーニア治安部隊の隊員だったが、テロ鎮圧作戦中に戦争が始まり、急遽、水軍の守備隊に転属させられる。軍用魔道機船に乗り組み、見張りとして空襲の警戒にあたる。
軍服は魔法の鎧。




