1358.積まれる善意
クフシーンカは、教会の前庭に積み上がった小麦粉の大袋を呆然と眺めた。
東教区には、パンを焼ける一般家庭はない。
仮設住宅の個々の部屋には台所がなく、屋外に共同の竈があるだけだ。
アパートなどの集合住宅も、一般的なコンロがあるだけで、パンを焼けるオーブンはない。調理器具の数も足りなかった。
料理と言っても、山で掘った芋や野草を煮るか、石で撃ち落とした鳥を焼く程度で、パンのように生地を捏ねて発酵させるなど、手の込んだことはできない。
……外で作れるものなのかしら?
これまでの救援物資は、開封するだけで、すぐ食べられるものばかりだった。
リストヴァー自治区東教会に集まった住民が、小麦粉の山を呆然と見上げる。
「これ何?」
「えーっと……こ……? こむぎこ? ……かな?」
東教区は開戦前まではバラック街だった。
食品工場での勤務経験でもない限り、生の小麦粉を見たこともない者が多い。貧しさ故に学校に行けず、読み書きも覚束ない住民が大半を占める。
「こっちのパン工場はみんな焼けちまったのに」
「粉だけ寄越されたって、どうにもなんねぇぞ」
「これ、パンの材料なの?」
「このままじゃ食えねぇけどな」
「小麦粉だけじゃ、材料が足りないのよ」
「他に何が要るの?」
「えーっと……塩と、えっと……なんだっけ?」
断片的な情報が交わされるが、ちょっとした小屋並に積み上げられた小麦粉は、どうしようもなかった。
たくさんの溜め息が、小さな雲になって冷たい風に流れる。
「取敢えず、小学校の空き教室に移動しましょう」
「雨で濡れたら大変です」
勿論、教会にもパン焼き窯はない。我に返ったウェンツス司祭と老いた尼僧の声で、人々が慌てて動き出した。
仮にパンの材料が揃っても、燃料や調理器具など必要な物はまだまだ足りない。
……何かの手違いなのかしら?
東教区には、料理の仕方を知らない者も多い。
作るにしても、普通のパンでは日持ちしない。
「ネズミに齧られなければよいのですが……」
尼僧も途方に暮れて、溜め息を吐いた。
腕力のある者は肩に担いで、ない者は台車などで小学校へ運ぶ。
力や道具がない者たちは、不安な眼差しで運搬の行列を見送り、尼僧と星道の職人クフシーンカの周囲に集まった。
「これ、ホントにこのまま食べられないんですか?」
「火を通さなければ、消化できませんから……おなかを壊しますよ」
尼僧の答えに落胆が広がる。
「パンでなくてもよければ、ほんの少し塩を足して水でゆるく溶いて、油を引いたフライパンで焼けば、食べられるようになりますよ」
「油も一緒に届いたんですか?」
乳呑児を抱いた女性が問うと、尼僧は目を伏せて首を小さく横に動かした。
「後から来るってコトじゃない?」
「フライパンとかも?」
「おいおい、毎日焼く気か?」
「薪拾いに行く身にもなってみろ」
「まとめてたくさん焼けたらいいのに」
あちこちで希望や諦めの声が上がる。
「パン工場、焼けちゃったもんなぁ」
「団地のパン屋はどうなんだ?」
「あっちも戦闘に巻き込まれたんじゃないの?」
「パン屋だって、燃料がなきゃどうにもならんだろ」
……太陽光の発電所が完成したのだから、電気の調理器具があれば、何とかなりそうなのだけれど。
家庭用なら膨大な数が必要で、その分、電力消費も増える。
東教区では多くの世帯が無収入だ。細々と得られるのは、罹災者支援事業などによる現物で、現金収入は殆どない。後は山で拾った薪と救援物資で日々を凌ぐしかなかった。光熱費の支払いができず、日が暮れればすぐ眠る暮らしを送る。
団地地区も、星の標とネミュス解放軍の戦闘に巻き込まれた商店を中心に余裕を失った。
生活環境だけは、開戦前とは比べ物にならない程よくなったが、ギリギリで命を繋いできた生活の糧を失い、援助なしではどうにもならない世帯が増えた。
……いつになれば、本当に自立した暮らしができるのかしらね。
慈善団体が何を思って、調理しなければ食べられない物を送ったのか、見当もつかなかった。
その二日後も救援物資が届いたが、今度は陶器の食器だ。家庭の不用品を集めたらしく、不揃いで、輸送途中に割れた物がかなりあった。
「これってバルバツムの新聞?」
「あ、ホントだ。共通語読めたら外国のコトがわかるんだな」
「学生さんに訳してもらおう」
中年女性が言うと、老人が緩衝材の古新聞を丁寧に開いて皺を伸ばした。
「割と最近だな」
「読めるのか?」
「日付だけな。先月だ」
バルバツム連邦の情報源として使えるだろう。破れないように慎重に食器から外し、まとめてリストヴァー大学へ持って行くことになった。
「それにしても、立派な建物ねぇ」
「写真見てるだけでもワクワクするな」
「見ろよ、この別嬪さん!」
男性陣が、記事下広告のモデルに鼻の下を伸ばす。
欠けがある食器は植木鉢の代わりにする。完全に割れた物は細かく砕いて小石の代わりに鉢の底に敷いた。
「皿だけ立派でもなぁ」
「食いモンもねぇのに」
「食器だけあってもねぇ」
「割っちまいそうでおっかねぇよ」
無事な食器は、仕分けを手伝った者が持ち帰っていいことになったが、東教区の住民は持て余し、大半が高校の空き教室に運ばれた。
一仕事終え、東教会の会議室で手紙の整理をする。
「テンペラートル医師が代表の頃は、こんなコトなかったのに……」
クフシーンカの口から思わず愚痴がこぼれ落ち、当時の交流を知るウェンツス司祭と尼僧が微かに頷いた。
「どうされましたか?」
フェレトルム司祭が、共通語の手紙を前に暗い顔をした三人を案じる。
クフシーンカは、運び屋の依頼を思い出し、先程の愚痴を共通語に訳した。
「以前はどうだったのですか?」
「前の代表……テンペラートル医師は毎年、ご多忙の合間を縫って、年に一度は自治区の視察をなさって、国会議員である私の弟や、聖星道リストヴァー病院の職員などから、必要なものを聞き取ってお送り下さったのですが……」
「今は戦争中ですし、いただけるだけでも大変有難いことなのですけれど」
尼僧が、どうにか感謝を捻り出そうとしたが、困惑には勝てなかった。
ウェンツス司祭も、食器と一緒に段ボールに入れてあった手紙を開披しながら力なく頷く。
「ここは紛争地ですから、危険を冒してまでお越しいただかなくても気にはなりませんが、せめて、臨時政府の報道発表や手紙か何かで、こちらの現状を確認してからにしていただけましたら、折角の善意がもう少し有効に」
「それなのですよ!」
フェレトルム司祭は地元の司祭に皆まで言わせず、苦り切った顔で話し始めた。
☆仮設住宅の個々の部屋には台所がなく、屋外に共同の竈があるだけ……「1079.街道での司祭」参照
☆焼けちゃった……「054.自治区の災厄」「055.山積みの号外」「212.自治区の様子」~「214.老いた姉と弟」参照
☆戦闘に巻き込まれた/星の標とネミュス解放軍の戦闘……「893.動きだす作戦」~「906.魔獣の犠牲者」「916.解放軍の将軍」~「918.主戦場の被害」参照
☆太陽光の発電所が完成……「0156.復興の青写真」「276.区画整理事業」参照
☆運び屋の依頼……「1357.変化した団体」参照
☆以前はどうだった……慈善団体“星界の使者”「1321.前後での変化」「1322.若者への浸透」「1357.変化した団体」参照




