1356.戦時下の民意
クフシーンカが、そろそろ寝ようと寝室に入った途端、声を掛けられた。
「こんばんは。お元気そうでよかったわ」
「あなたもご無事で何よりです」
運び屋の訪問は、いつも突然だ。
緑髪の魔女は人知れず【跳躍】の術で侵入し、クフシーンカにリストヴァー自治区の外で起きた出来事を教える。
連絡手段が「直接会って話す」しかなく、定期連絡では、お互いに大した用がない時にも時間を作らねばならず、負担が大きくなる為、仕方がなかった。
力なき民の老女には、この魔女の侵入を拒む力などない。
キルクルス教徒のクフシーンカにとって、魔法で家に出入りされるのは、決して気持ちのいいことではない。だが、運び屋フィアールカが持ち込むのは、いつも有益な情報と物資だった。
クフシーンカはベッドに腰掛け、フィアールカは扉の脇に立って話し始めた。
「アーテルの大統領予備選、予定から一カ月くらい遅れたけど、実施されたわ」
「戦争中でもしたのですね」
「内乱中も、してたわよね」
「通知も何も届きませんでしたけれど」
当時のクフシーンカたちは、迫害から逃れる為、ネモラリス島からネーニア島に渡り、転々として暮らした。
親友のカリンドゥラとフリザンテーマ姉妹との文通は細々と続けたが、役所には半世紀の内乱が終わるまで、転居先を届けられなかった。
極少数の身内や親友など、ほんの一握りの者しか信じられない時代だったのだ。
「投票率、三割にも届かなかったけど、二月に本選するって決まったわ」
クフシーンカは、アーテル政府の強引さに声も出ない程、驚いた。
内乱中、家族を喪った弟のハルパトールは、政治活動にのめり込んだ。
低い支持率で議員となった者たちは、ラキュス・ラクリマリス共和国の内戦に終止符を打つべく、協議を重ねた。
当時の議員は大半がどこかの武装組織に所属し、信仰と政治的信条などに生命を懸けて、議会の内外に於いて文字通りの意味で戦った。
内乱後、クフシーンカの弟も、自治区民の生活再建がままならず、投票率が低い中で国会議員となった。
元音楽家として出馬したクフシーンカの弟竪琴奏者は、国会議員となってからは「罠」と呼ばれるようになった。
「今回、第二回予備選を通過して、本選に進出できたのは、現職のポデレス大統領と、音楽家でファンが多いヒュムヌス候補、それから、無所属の新人ミェーフ候補よ」
「新人さんが通ったの?」
「まだ二十代で最年少よ」
運び屋フィアールカは、クフシーンカの驚きに短く答え、タブレット端末片手にベッドの傍へ来た。手帳程の小さな画面には、星光新聞アーテル版を撮った写真が表示してある。
一面で、トップ記事は予備選の結果。クフシーンカの目は、円グラフに吸い寄せられた。フィアールカの指が画面を撫で、円グラフが大写しになる。
全体の投票率は、二十三.五パーセントしかなかった。
「ネモラリス軍は、アーテルに空襲をしておりませんよね?」
「えぇ。でも、通信途絶でインターネット投票ができなくて、魔獣がいっぱい出て、外出を控える人が増えたから、そんな状態で二割以上が投票したのって、逆に凄いんじゃないかしら?」
運び屋の瞳には、半ば面白がる色が浮かぶ。
通信途絶と魔獣出現の件は以前、この魔女から教えてもらった。
クフシーンカは、アーテル共和国の街が、敵の見えない戦場になったのだと想像した。
「確かに内乱中も選挙はあったけれど、ここまで投票率が低かった憶えはありません」
「あの頃はみんな、自分の信仰や信条の為に命懸けで投票所へ行ったもの」
「今のアーテルは違うと言うの?」
……あんなに血を流してまで、民主主義の政体とキルクルス教の信仰を勝ち取って、独立したと言うのに?
「投票日の朝早く、あちこちの投票所の前で、魔獣が人を食い殺したから、行くに行けなかった人が多かったんじゃないかしら?」
「何ですって?」
「同志に現地の様子を見に行ってもらったんだけど、新聞には一件も載らなかったのよ」
クフシーンカは、言葉もなかった。
恐怖と混乱を抑える為に報道規制を敷いたのは想像に難くない。
「被害状況とかは調査中よ。元々争点が薄かったし、命を捨ててでも選挙って人が少なくても、仕方ないわよね」
魔哮砲戦争については、ネモラリスとの徹底抗戦を叫ぶ声が大きく、報道も戦意昂揚系が多かった。
ヒュムヌス候補は、全候補者で唯一人、平和を訴えた。
掲げた公約はたったひとつ。「魔哮砲戦争の終結」だ。
低投票率の中、マスコミが大して相手にしなかった泡沫候補が、得票率二位で予備選を通過した意味は大きい。
ルフス工業団地計画の件は、通信途絶でそれどころではなくなった。
ポデレス大統領は再開発の準備を進めるが、既に決定し、行政機関が実行に着手した政策なら、誰が大統領になっても後は同じだ。
ミェーフ候補は、工業団地への外国企業誘致に反対の立場を取るが、再開発計画自体には肯定的だ。反対するのは、アルトン・ガザ大陸にある大国の進出で、隣のラニスタ共和国や湖東地方のキルクルス教国との連携は、強化すべしと訴える。
「それでも、やり直さないのでしたら、これが結果でしょう」
クフシーンカが言うと、運び屋フィアールカは頷いた。
これが、アーテル共和国の民意なのだ。
☆アーテルの大統領予備選……「1343.低調な投票率」~「1346.安定には遠く」参照
☆当時のクフシーンカたちは(中略)転々として暮らした……「0059.仕立屋の店長」「0090.恵まれた境遇」「0091.魔除けの護符」「554.信仰への疑問」「555.壊れない友情」参照
☆クフシーンカの弟も(中略)国会議員となった……「214.老いた姉と弟」参照
☆通信途絶……「1218.通信網の破壊」~「1222.水底を流れる」「1223.繋がらない日」~「1225.ラジオの情報」参照
☆インターネット投票ができなくて……「1266.五里霧中の国」「1334.武官らの働き」「1341.何の為に働く」参照
☆魔獣がいっぱい……「1218.通信網の破壊」「1225.ラジオの情報」「1232.白い闇の中で」「1240.基地局の種類」参照
☆外出を控える人……「1223.繋がらない日」「1296.虚実織り交ぜ」参照
☆投票日の朝早く、あちこちの投票所の前で、魔獣が人を食い殺した……「1344.投票所周辺で」参照
☆ヒュムヌス候補は、全候補者で唯一人、平和を訴えた……「1139.安らぎの光党」「1345.当落要因分析」参照
☆ルフス工業団地計画の件……「0966.中心街で調査」、「1022.選挙への影響」「1023.特番への反応」、「1027.工業団地計画」~「1029.分断の阻止へ」「1088.短絡的皮算用」参照
☆通信途絶でそれどころではなく……「1262.沈みゆく泥船」参照
☆ポデレス大統領は、再開発の準備を進める……「1147.動き出す歯車」「1152.大統領の演説」参照
☆ミェーフ候補……「1138.国外の視点で」参照
▼各候補の得票率
▼全体の投票率




