1309.魔力を捧げる
スキーヌムが小声で何か言う。
クルィーロは、やや身を屈めて顔を近付けた。
「聖典のようなものはないのですか?」
「ないよ」
「異なる神話を……みなさん、それぞれ信じていらっしゃるのですか?」
「そうだよ」
「それで何故、信仰を維持できるのでしょう?」
「ここじゃアレだから、その話は後でしようか」
クルィーロはスキーヌムの耳元で囁いて、背筋を伸ばした。
スキーヌムも、流石にここでそんな話をするのはマズいと気付いたらしく、やや歩調を上げ、前を行く参拝客と距離を詰めた。
クルィーロは、故郷の神殿がどうだったか、記憶を手繰る。
アマナの入学祝いや自分の就職祝いの思い出の中で、ゼルノー市のパニセア・ユニ・フローラ神殿は、完全に風景だった。
通路の浮彫を思い出そうとすると、開戦後に参拝したあちこちの神殿の記憶が混じってわからなくなる。
大人たちから浮彫の存在や、神話の場面だとは教わったが、特に意識して見たことはなかった。
神話も、何かの折に触れて耳にし、何となく記憶に残っただけで、自ら進んで学び覚えたことはない。
ふんわりした記憶と認識で、細かいことを聞かれても、どこがどう違うのか答えられそうになかった。
人々の頭越し見える壁の浮彫は断片的で、どの場面なのかもわからない。
……モーフ君の絵本……いや、あれはネモラリスだけか。
ウーガリ山脈の裾野の旧街道で再会した時、少年兵モーフは何故か、フラクシヌス教の絵本を持っていた。
しばらくは、メドヴェージとレーフから読み方を教わり、何が気に入ったのか、今でも時々読み返す。
ソルニャーク隊長が、レーチカ市で買い与えたと聞いて、クルィーロたちは驚いた。巻末でネモラリス建設業協会が「すべて ひとしい ひとつの花」の歌詞を募集するからだと説明された。
それでも、星の道義勇軍の大人二人が、少年兵モーフが読むのを止めないのは、意外だ。
……ラクリマリスの本屋さんも、あんな感じのゆるい絵本ってあんのかな?
祭壇が近付くにつれ、列の進みが遅くなる。
それでも、アーテル本土で見た選挙演説の聴衆のようにタブレット端末をいじる者は居ない。
単に魔法文明国出身の巡礼は、持っていないだけかもしれないが、クルィーロも何故か、今は本屋の場所を調べたいと思わなかった。
水の匂いを含んだ風が、人熱れで熱った頬をやさしく撫でる。
「もうすぐ祭壇の広間だよ」
「……はい」
声を掛けると、スキーヌムの返事が掠れた。
レノが細い肩に腕を回す。
「ここまで来られたんだし、大丈夫だ」
軽やかに言って肩を叩き、身を離す。
スキーヌムは深く頷いて前を向いた。
「左右に分かれて、ゆっくりと祭壇前へお進み下さい」
「こちら、空いてますよー、どうぞー」
神官と警備員の誘導で、人の群が左右に分かれる。
広い空間に冬枯れの枝を広げる大樹と岩山を模した岩塊が鎮座する。
「秦皮の葉蔭で乾きから守られますように」
「高き頂天へ伸び 磐根は深く地の底へ 全き安らぎ 毫も揺るがず」
「我ら すべて ひとしい 水の同胞。水の縁が幸いと結びつきますように」
ここまで来ると、流石にお喋りよりも祈りの詞を唱和する声が増えた。
「そっち行こっか」
レノが、呆然と立ち竦むスキーヌムの肩を抱き、警備員の声がする方へ連れてゆく。クルィーロは、ぎこちなく足を運ぶ元神学生のすぐ後ろを歩いた。
大神殿から流れる水脈を引き、ラキュス湖を模した水の祭壇の前に跪く。
「水の縁が幸いと結ばれますように」
レノはコートのポケットから【魔力の水晶】を出し、祈りの詞を唱えて水に沈めた。底の傾斜に沿って淡い光が転がり、敷石に刻まれた呪印や呪文に反応して、蓄えた魔力を放出する。
淡い光に照らされた岩塊と大樹を見上げると、荘厳な姿に身が引き締まる心地がした。
「ここから大神殿の女神の涙“青琩”に魔力が注がれて、湖水を産み出して旱魃の龍を封じる力になるんだ」
クルィーロが小声で説明し、掌を開く。空だった【水晶】が魔力を宿し、水底に沈む大勢の祈りと同じに輝いた。
「お祈りは言っても言わなくても、どっちでもいいんだ」
「よろしいのですか?」
驚いた顔がこちらを向く。
「要は、水の恵みを与えて下さる神様たちに感謝と魔力が届けばいいんだから」
クルィーロは祈りの詞を唱えずに【水晶】から手を離した。
「……の僕なんかが本当に……」
スキーヌムが殆ど口の動きだけで異教徒と言って青褪める。
クルィーロは改めて祈りの詞を唱えた。
「湖上に雲立ち雨注ぎ、大地を潤す。
木々は緑に麦実り、地を巡る河は湖へと還る。
すべて ひとしい ひとつの水よ。
身の内に水抱く者みな、日の輪の下にすべて ひとしい 水の同胞。
水の命、水の加護、水が結ぶ全ての縁。
我らすべて ひとしい ひとつの水の子。
水の縁巡り、守り給え、幸い給え」
スキーヌムがこちらを向いた。
「ラキュス湖に住む魚は勿論、畔で暮らす人も鳥も獣も、植物も……この世の生き物はみんな仲間だ」
「誰も除け者になんてされない」
レノが言って、固く握られた拳を両手で包む。
「手を開いてごらん」
パン職人の大きな手が、元キルクルス教神学生の華奢な手をやさしくさする。冬芽が葉を広げるように細い指が開いた。
大豆くらいの【水晶】が掌を淡く照らす。
……このコ、俺より魔力強いんだな。よく今まで無事でこれたもんだ。
何かの弾みで魔力を暴発させては危険だ。魔力の制御方法を習得しなければ、自己嫌悪どころでは済まない事態を引き起こしかねない。
だが、【魔力の水晶】に触れるだけでこんなに怯えるのだ。
無理強いはできなかった。
……後で店長さんに相談しなきゃな。
レノがスキーヌムの手を傾け、【魔力の水晶】を祭壇に湛えられた水に沈める。
女神の涙に受け止められた小さな輝きは、すぐに他の輝きと合流し、紛れてわからなくなった。
☆モーフ君の絵本……「671.読み聞かせる」「672.南の国の古語」参照
☆ソルニャーク隊長が、レーチカ市で買い与えた……「647.初めての本屋」参照
☆アーテル本土で見た選挙演説の聴衆……「1138.国外の視点で」「1139.安らぎの光党」参照




