0134.山道に降る雨
今日は、朝から曇りだ。
霧に日を遮られ、夜が明けても雑妖がうろつく。
針子のアミエーラは、昨日よりも慎重に道を確かめながら、山道を歩いた。
水を一瓶飲み干し、荷物が少し軽くなった。負担が減った分、不安が増す。
飲料水が尽きる前に、街へ降りられるのか。
歩きながら、幼いあの日のことを思い出す。
……そう言えば、「鉱毒があるから、山の湧き水は飲んじゃいけない」って、お祖母ちゃんが。
昼少し前にやっと、ゼルノー市のピスチャーニク区へ降りる分かれ道に出た。
大荷物を持った歩き慣れない身では、隣の地区に出るだけでも丸一日掛かってしまった。
道標の横に立ち、北を見る。
薄らいだ霧と木立の間に見えたのは、一面の焦土だ。この分では、ニェフリート河に架かる橋も無事ではないかもしれない。
そのまた隣のゾーラタ区沿いに流れるニェフリート河を越えれば、クルブニーカ市だ。薄くなったとは言え、霧のせいでそんなに遠くまでは見通せなかった。
アミエーラは震える足を叱咤し、曲がりくねった山道を西のクルブニーカ市へと急いだ。
悪いことは重なるもので、ポツリポツリと雨が降ってきた。
すっかり葉を落とした木々は、雨を遮ってくれない。
雨脚は強くないが、アミエーラの手元には雨を防ぐ物が何もなかった。
……どこか、雨宿りできるところ。
とにかく、前へ進むしかない。
雨の中では食事もできず、歩き続ける。
次第に雨脚が強まり、コートが重くなってきた。吐息が白く立ち昇る。コートの魔法【耐寒】で、寒さに苛まれないことだけが救いだ。
道の両脇を濁った霧が流れる。
いや、雑妖だ。
雨とは言え、流石に日中は弱るのか、汚らしい霧となって風に揺らめく。
日が傾きかける頃、小屋に辿り着いた。
周囲は木が伐られ、作業場として開ける。切り株から伸びる孫生は、アミエーラの身長より高かった。
作業場には淡い雑妖がうっすら広がる。
アミエーラが意を決して一歩踏み込むと、汚らしい霧の塊が道を開けた。【魔除け】に蹴散らされ、足を進めた分だけ、山道から戸口まで明るい通路ができる。
色褪せたペンキは、辛うじて「林業組合」と読めた。
「ごめん下さい」
小声で言ってノブに手を掛ける。鍵は掛かっていなかった。そっと中に入る。
いつから放置されたのか、天井が半分落ちて雨が降り込む。落ちた屋根はすっかり土に還り、床には落ち葉が積もるが、雑妖の姿はなかった。
アミエーラは朽ちた小屋でも安堵した。
雨宿りできる。
雑妖が居ない。
一部屋きりの小屋は、中央に炉が切ってあり、灰と炭の欠片も残る。
入口脇に短い箒とチリトリが落ちていた。
壁には、錆びた鎌と鋸、鉈が三丁ずつ掛かる。
アミエーラは、穂のすり減った箒で落ち葉を掃き集めた。乾いた所だけを掃くが、思った以上に埃も多い。
驚いた蜘蛛が逃げ惑う。
落ち葉を除けると、部屋の隅から【魔除け】の敷石と同じ物が出て来た。雨の当たる場所は掃かなかったが、四隅にあるのだろう。
ホッとして荷物を下ろす。
一カ所に集めた落ち葉から小枝を拾い集めた。
……薪になりそうなのは、これだけしかないのね。
炉に落ち葉を山盛りにし、上から小枝を少し乗せた。
乾いた場所から手を伸ばし、届く範囲から濡れた小枝も拾う。こちらは、周囲の灰に突き刺した。
リュックのポケットからマッチを取り出す。リュックは単なる厚手の布なのに全く濡れていない。中も無事だ。
……これも、何かの魔法なのかな?
タオルで身体を拭いて着替え、濡れた衣服をリュックに引っ掛けた。
新しい肌着の上にコートを羽織り、前を広げて焚火にかざす。
コートの前や肩はずぶ濡れだが、背中はリュックのお蔭で乾いていた。それに、冷たくない。
……魔法って不思議。
少しずつ落ち葉を足して服を乾かす。落ち葉が燃え尽きる前に何とか着られるくらい乾いた。
乾いた服を身に着け、コートを羽織り直す。
……あ、そうだ。
リュックから空き瓶を出し、雨を溜める。
鉱毒で汚染された湧き水より、雨水の方がずっと安全だ。自治区ではいつも、こうして雨を集めた。
見上げると、分厚い雲が天を覆い、雨は止みそうもない。
小鍋に水と塩を少し入れ、乾物の野菜を煮る。
最後の枯葉一掴みを焼べ、湯が湧くのを待つ。
……ダメね。こんなことなら、雨が降る前に薪を拾っとくんだった。
暖を取り、雑妖を退ける為に一晩中、火を焚く必要がないのは幸いだ。
コートの【耐寒】と、服やお守り袋、小屋の【魔除け】で守られる。
そうでなければ、とっくに凍え死んだだろう。
アミエーラは自分の迂闊さを戒め、静かに焚火を見守った。
食事を終える頃には、乾かした小枝も尽き、火が消えた。
小屋はすっかり暗くなり、何もできなくなった。
雨音以外、何の物音もないのが却って不気味だ。
店長がくれた懐中電灯を使えば明るくなるが、特にすることもないのに点けるのは、勿体ない気がする。
アミエーラは、焚火の暖気が消えない内に横になり、目を閉じた。
雨の山道を歩き続けた疲れのせいか、泥沼のような眠りに沈んだ。




