1299.初めての異郷
元神学生のスキーヌムは、力なき民のレノを介して魔法使いのクルィーロと手を繋ぐことに難色を示さなかった。
力ある言葉で呪文を唱えても、手を振り解かない。大人しく【跳躍】の術に身を委ね、王都ラクリマリスを見下ろす丘に降り立った。
「あそこがフラクシヌス教の聖地ラクリマリスだよ」
「あれが……」
厚く堅牢な防壁の内側には、古い街並みと白い神殿、冬も青々と茂る樫の緑が、縦横に張り巡らされた水路の輝きに縁取られ、薄青い寒空の下で佇む。
「道路が光るのも、魔法なのですね?」
「ん? あぁ、あれは水路だよ」
「すいろ……」
レノの返事に呆然と単語を繰り返す。
クルィーロはスキーヌムの隣に立ち、膝を軽く曲げて目の高さを合わせた。頭ひとつ分下の視点は、同じ景色も少し違って見える。
「岩山が見えるかな? 王都の中心より少し南……あ、今、北に向かって立ってるんだけど」
「岩山……はい。あれですね?」
「あの岩山のすぐ下に大神殿……ラキュスの核があるんだ」
クルィーロは知る限りの知識を総動員して、キルクルス教の神学生だった少年に王都ラクリマリスとフラクシヌス教の関係を説明する。
「あの水路は女神の涙……青琩が産み出した水を巡らせたもので、魔法陣を形成して聖地を守ってるんだ」
「せいぼう……」
「湖の女神パニセア・ユニ・フローラ様の【魔道士の涙】だって伝えられてる」
少年の目が岩山に吸い寄せられる。
「水路で……どのようにして街を守るのですか?」
「王都に住む人や、水路を通る人たちの魔力を使って、街全体に守りの術を掛けてるんだよ」
どこまで理解できたか不明だが、スキーヌムはクルィーロの話に疑いを挟まず、王都ラクリマリスを見詰めて聞き入る。
「陸地の道を歩くより早くて便利だから、船を使うけど、いいかな?」
「魔法で移動しないのですか?」
意外な質問に軽く驚いたが、顔には出さず説明する。
「中は【結界】があって【跳躍】は許可地点同士でないとダメだから、却って不便なんだ」
「水路の渡し舟は船頭さんが魔法で動かして全然揺れないから、乗物酔いの心配はないよ」
「水の上を移動するのですよね? 魔物に引きずり込まれないのですか?」
スキーヌムの声が、風で千切れる。
「王都は女神様と大勢の人たちに守られてるから、心配しなくても大丈夫だよ」
「魔物は居ないんだ。さ、もう一回、門の近くまで跳ぶよ」
クルィーロが新しい【魔力の水晶】に持ち替えて言うと、スキーヌムは素直にレノと手を繋いだ。
門の近くに【跳躍】し、改めて注意を与える。
「王都の移動は水路が中心だけど、自動車も少し走ってるから気を付けて」
「魔法文明国なのに自動車があるのですか?」
スキーヌムが目を見開いて囁く。
冬枯れの野では、あちこちで【跳躍】の詠唱が聞こえる。門を徒歩で出た者たちが草地に入って呪文を唱え、結びの言葉と同時に姿を消した。
クルィーロたちのように【跳躍】して来た者たちは、門からやや離れた草地に姿を現し、石畳の二車線道路にゆったり設けられた歩道を歩いて門を潜る。
時間帯のせいか、どちらを向いても車は一台もなかった。
「元は両輪の国だったから、ラジオもインターネットもあるよ……ほら」
クルィーロは、ポケットからタブレット端末を取り出して、アンテナ表示を見せた。スキーヌムが息を呑む。
レノは気にせず予定を告げた。
「お使いが終わったら、お昼ごはん食べて、それから、俺たちは神殿にお参りしたいんだけど、いいかな?」
「は、はい」
スキーヌムの顔から表情が消えた。
……流石に神殿はムリか。
クルィーロは「一人でお茶して誰かを待つ」経験もあった方がよかろう、と気持ちを切替えた。
王都の門を潜ると、道が左右に分かれ、広い水路に迎えられた。
この辺りの街路樹は樫と秦皮が交互に植わる。樫は青々と葉を茂らせるが、秦皮はすっかり冬枯れして一枚もなかった。道は清められ、人通りが多いにもかかわらず、ゴミや落葉は見当たらない。
大門を潜った人々は、それぞれ行き先を書いた船着場の看板を目指して散る。街路樹より高く作られた橋を渡り、対岸の船着場へ行く者もあった。
細い渡し舟が木製の桟橋に停まり、乗客を入れ替えてすぐに発つ。
クルィーロはゲンティウス店長のメモを読み返し、行く先を確認した。
「その橋を渡ったとこの船着場だな」
指差すと、スキーヌムは怯えた目で石橋を見上げた。
階段は中央分離帯に建つ柱に支えられ、歩道と車道を跨いで何度も折り返して歩道橋並の高さを出す。角度は緩やかだが、その分、段数は多かった。
「王都の橋や建物はみんな【巣懸ける懸巣】学派の術が掛かってて、魔物とかを寄せ付けないし、火事や地震にも強いんだ」
「では、ネモラリスの建物も?」
「……半世紀の内乱中に酷くやられて【巣懸ける懸巣】学派の術者が全然足りないから、役所とか重要な建物以外は、あんまり残らなかったよ」
極力、なんでもないことのように説明したが、スキーヌムは項垂れた。
「すみません」
「君がやったんじゃないんだから、謝んなくていいよ」
クルィーロは精一杯、軽いノリで言うが、スキーヌムは伏せた顔を上げない。
「もうすぐ次の舟が来るみたいだし、早く渡ろう。なっ」
レノがやさしく肩を抱いて促すと、スキーヌムは足を踏み出した。
人の流れに乗って、堅固な石橋を渡る。
ロークの報告書によると、スキーヌムには魔力があるそうだが、橋を巡る魔力の流れを感じ取れただろうか。
この辺りの水路は、二車線道路よりも幅が広い。
船頭たちは巧みに操船し、水路に建つ柱を避けて往来する。
葉を失った秦皮とこんもり茂る小山のような樫が交互に並び、水路に沿って見渡す限り続く。
「風強いけど、寒くない?」
「は、はい。ありがとうございます。レノさんとクルィーロさんも、大丈夫ですか?」
「慣れてるから平気だよ」
「俺は服に【耐寒】の術が掛かってるから大丈夫だ」
スキーヌムが顔を上げ、クルィーロの服を見る。
「呪文は外から見えないとこに染めつけてあるんだ」
「そんな服もあるのですね」
「うん。もらい物だから、値段とかはわかんないけど、郭公の巣のクロエーニィエ店長さんなら、作り方も知ってるよ」
スキーヌムは小さく頷くと、前を向いた。
石橋を行き交う人々の服装は様々だ。
はっきりそれとわかる呪文や呪印の刺繍が入ったもの、染めつけてあるもの、織り込んであるもの、それらが全く表から見えない無地のもの……無地の服を着る者は、外見から魔力の有無がわからない。
買物籠を片手に行くのは地元民だろう。
クルィーロは、ふと呪医セプテントリオーの話を思い出し、小さく身震いして橋を渡りきった。
☆ラキュスの核
一般人の認識……「534.女神のご加護」「821.ラキュスの水」参照
内部の様子……「683.王都の大神殿」「684.ラキュスの核」参照
☆呪医セプテントリオーの話……「1270.早過ぎる落葉」参照




