1292.修理できない
クラウストラの【跳躍】で移動した先は、ありふれた事務室だ。
事務机とキャビネットが三組置かれ、机上にはノートパソコンと電話もある。事務所の体裁は整えてあるが、殺風景な部屋に人の気配はなかった。
ブラインドが降りて薄暗いが、埃っぽさはない。机の横に置かれたゴミ箱には、紙屑と綿埃があった。
「ここはルフス東部にある古い雑居ビルだ。配線の都合でビルの出入口に防犯カメラを設置できない」
「雑居ビル……出入りの人数に食い違いがあっても気付かれ難いんですね?」
「そう言うことだ」
ロークは、活発そうな少女の外見に似合わぬ物言いにもすっかり慣れた。
クラウストラは、事務机の抽斗からペンと付箋を取り出して何事か書きつけた。外見通りの可愛い筆跡だ。書いた一枚以外を元に戻して唯一のドアに近付く。
ドアノブの下にも色違いの付箋があった。
クラウストラは付箋を貼替え、剥がした方のメモを先程とは違う種類の大人っぽい口調で読み上げた。
「所長、昨日の十時二十分に来客がありました」
手を触れないのにドアが開いた。二人揃って廊下に出る。目の前が階段だ。
他の部屋の前にはそれぞれ社名入りの立看板があった。来客対応中らしき声が漏れ聞こえる。
クラウストラはドアを閉めてノブを握り、小声で力ある言葉を唱えた。途中、湖南語で「明日、十一時に支社長がお見えになります」と、貼替えた付箋の内容を織り込む。
……あ、そっか。これって【鍵】の術なんだ。
放送局の廃墟や、ランテルナ島の拠点に居た頃、アウェッラーナたちが何度も扉に掛けてくれた。
解除の合言葉を「他社の者に聞かれても不自然に思われないもの」に設定して、内側に貼る約束なのだろう。
……ここ、他の同志も使うんだ。
一体、どれだけの人数で、どんな人物が居るのか。
少なくとも、怪しまれずにアーテル共和国の首都ルフスで、事務所の賃貸借契約を結び、備品の手配もできる人物が最低一人、居るのは疑いようがない。
資金はカンパなどでも調達できるが、契約に必要な法人登記などの証明書類は、現地人でなければ難しいだろう。
……まぁ、フィアールカさんはトラックの偽造ナンバー、すぐ持って来てくれたけど。
この雑居ビルが建つ街区は、似通った古い低層ビルが多かった。
道路に面した数棟は、ガムテープや段ボールで窓を塞いである。
ロークは、タブレット端末で窓が割れたビルの写真を撮った。クラウストラの報告書が脳裡を過る。爆風被害に思い到り、端末を持つ手が震えた。
午前九時過ぎ。
通勤の時間帯が終わり、オフィス街の人通りは少ない。
車道も、配送の大型トラックが走るだけだ。見える範囲に乗用車やタクシーは居なかった。
電柱は七、八本に一本が新品だ。煉瓦敷きの歩道で、その周囲だけが黒々としたアスファルトで埋めてある。
車道を挟んだ向かいの道に人が見えた。
足を止めて目を凝らす。顔はよく見えないが、覚えのある背格好だ。
「どうしたの?」
「あそこに駆除屋さんが居ます」
何度か呪符を買いに来た魔獣駆除業者だった。
今のロークは【化粧】の首飾りで別人の顔だ。気付かれはしないだろうが、掌がじっとり汗ばむ。
クラウストラが素早く視線を巡らせ、力ある言葉で囁く。ロークにも、漲る緊張が肌で感じられた。
何事もなかったフリでゆっくり歩き、赤信号で止まる。
ロークの目にも、駆除業者の背後に「通行止」の立看板が見えた。
信号が変わり、クラウストラが横断歩道に一歩踏み出しかけて動きを止める。
「何かありました?」
「あっちの道、通行止めだって」
「ホントだ」
指差され、たった今、気付いたフリで話を合わせる。
「じゃあ、今日はそっちのお店にする?」
「うん!」
ロークが、車道沿いの道の先を指差すと、クラウストラは元気よく頷いた。
「じゃ、決まりね。奢ってくれる?」
「えぇー? 割勘じゃダメ?」
横断歩道を渡るのをやめ、よく居る高校生カップルを演じて、車道沿いの歩道を歩く。クラウストラが止まらないので、彼女の歩調に合わせて道なりに進んだ。
「ここにしよっ!」
言われるまま、チェーン店のカフェに入った。
大型店舗だが、客で埋まった席は疎らだ。二人はセルフカウンターで代用珈琲を注文し、窓際のカウンター席に陣取った。
クラウストラの顔が、車道の向こうに立つ魔獣駆除業者に向けられる。
ロークはガラス越しにオフィス街を撮った。割れた窓を段ボールやブルーシートで覆ったビルがそこかしこに見える。
……ガラス屋さんも手が足りないのか。
魔獣のせいで作業できず、湖上封鎖と通信途絶によって仕入れもままならない。
窓の修理が進まない理由は、素人のロークでも次々思い浮かんだ。建設業組合員の同志なら、もっと詳しくわかるかもしれない。
駆除業者が動いた。通行止看板の向こうへ走る。
クラウストラの視線は動かない。
業者が角を曲がり、ロークの視界から居なくなった。
仕方なく、代用珈琲を啜る。
先程の小さな喫茶店では、クラウストラが場違いな客の言い訳をしたのだと思ったが、違った。あの店は、本当に「代用珈琲でも美味しく淹れられる技術」があったのだ。
……でも、あの店、戦争が長引いたらなくなっちゃうんだよな。
技術はあっても資力が乏しい個人経営の店は、開戦から幾つ消え、これからどれだけ失われるのか。
クラウストラがタブレット端末を出し、ロークとは比べ物にならない速さでテキストを打ち出した。
〈菓子卸業者のビルの裏手で魔獣を駆除。
道に居たのは見張り兼結界担当だ。
魔獣は小型の地蟲。かなり人を食った個体。
確認できただけで十七人の顔があった。
今は素材になる部分を回収中。〉
クラウストラが信号で唱えたのは【索敵】だったらしい。
ロークは改めて窓越しに見たが、菓子問屋の看板を掲げたビルに遮られ、何もわからない。
客が少ない理由を思い知らされ、暖房が効いたカフェで身震いした。




