1286.接種状況報告
「えっと……まだ、何か大丈夫じゃなさそうな感じなんですけど、話……いいんですか?」
枕元に来たクルィーロが、開口一番、不安に塗れた気遣いを発した。
アウェッラーナの兄アビエースは、何か言いたそうな顔で隣に控えるが、結局、何も言わずに台所で借りた椅子に腰を降ろした。
「兄さんが大袈裟なだけよ」
アビエースが微妙な顔で横を向く。
アウェッラーナは構わず、寝台の傍らに立つクルィーロを見上げた。
「折角、みんなに買出しや下拵えを手伝ってもらったのに……ごめんなさい」
「そんな! 俺たちの方こそあんまり手伝えなくて、こんな……すみません」
気マズい沈黙が降りたが、クルィーロが微笑で重い空気を緩めた。
「素材とかは、また買えばいいんで気にしないで下さい。それより、俺たちみんな、アウェッラーナさんが元気で笑ってくれる方が嬉しいです」
あの日、薬師アウェッラーナは村唯一の学校の保健室で、患者に合わせて粉薬を計量する最中に倒れた。
何の前触れもなく、糸を切られた操り人形のように全身の力が抜けて、動けなくなったのだ。
受け身も取れず、薬を盛った皿や上皿天秤などと共に床へ崩れ落ちた。
破片で何カ所か切ったようだが、その痛みもどこか他人事のように遠かった。
怪我は、呪医セプテントリオーがすぐ治してくれたが、疲労には、魔法も科学も「休養」以外の回復方法がない。
兄に促され、クルィーロが椅子に座った。
「お兄さんから聞いたと思うんですけど、フィアールカさんが、魔法と科学両方わかる内科のお医者さんを連れて来てくれて、お薬もいっぱい持って来てくれたから、何とかなってますよ」
「……ごめんなさい」
力なく目を閉じたアウェッラーナにクルィーロのやさしい声が降り注ぐ。
「そんな……謝らないで下さいよ。誰も悪くないって言うか、アウェッラーナさんは誰よりも頑張ってくれてたのに」
「強いて言えば、役所の伝染病対策がダメなせいで、こんなコトになったんだ」
兄が感情を抑えた声で言う。
続いたクルィーロの声は穏やかだ。
「その役所も、内乱からの復興で予算がないから、ちゃんと対策したくてもできなかったって、ジョールチさんが言ってましたよ」
目を開けると、二人揃って弱々しい微笑をアウェッラーナに向けた。
つい先程、起き上って長話するのは兄に止められたばかりだ。言い付けを守り、寝台から二人を見上げる。
クルィーロはタブレット端末を取り出して、画面を見ながら報告を始めた。
「こっちにインターネットがなくて連絡取れないから、フィアールカさんとお医者さんは、多分これが要るだろうって、見当つけて色々持って来てくれました」
運び屋フィアールカは先に引き揚げた。
内科医は一日診療して足りない薬の一覧を作り、翌日、クルィーロが端末で撮って王都ラクリマリスに跳んだ。フィアールカの指示でファーキルにメールで送り、支援者マリャーナが、懇意にする製薬会社に調達を依頼してくれた。
「そうだったの。有難うございますって伝えてもらえますか?」
「勿論ですよ」
クルィーロの笑顔で、少し気持ちが解れた。
平和なアミトスチグマなら、医薬品の在庫は豊富だろう。
「それと、ワクチンの件は……」
「その会社が、ザミルザーニィ大使とは別の経路で、麻疹ワクチンの原料と完成品をアミトスチグマの本社に輸入して、マリャーナさんのパルンビナ株式会社がそこから仕入れて、以前と同じようにリャビーナ市の製薬会社に売りました」
ネモラリス側の製薬会社は、ネミュス解放軍から資金提供を受け、全量を購入。半分は首都クレーヴェルの製薬会社に引き渡した。
既に製造が始まり、完成品で輸入したワクチンは、解放軍が結成した医師団に渡り、近い内に接種を行うと言う。対象地域は、ネモラリス島北部と東部だ。
「で、大使の方も第二便がえーっと……今日から数えて十日後、トポリ空港到着予定。リストヴァー自治区は昨日の時点では、まだ発症者が出てないそうです」
フィアールカの仲間が、臨時政府の保健省から何らかの手段で情報を掴んだ。
第二便のワクチンは全てリストヴァー自治区に回し、接種率を上げる。
自治区の東地区は、貧しさ故に受診しない者が大多数を占める為、臨時政府が医師団を派遣し、個別訪問で強制接種する。ついでに致死率の高い感染症の患者を発見すれば、隔離も行うと言う。
……そんなコトができるんなら、どうしてもっと早くしてくれなかったの?
リストヴァー自治区はキルクルス教徒の居住区で、魔法使いの医療者は一人も居ない。
住人が力なき民ばかりの為、一度、麻疹の流行が発生すれば、湖の民だけのこの村よりずっと酷いことになる。
薬師アウェッラーナは、高熱で苦しみ、発疹だらけになったソルニャーク隊長と少年兵モーフの顔を思い出し、布団の中で拳を握った。
クルィーロが画面をつついて報告を続ける。
「難民キャンプは、アサコール党首が現地の国会議員の人に頼んでくれて、麻疹だけじゃなくて他のも色々接種が進んでます」
「それ以外って、どんなワクチンですか?」
アウェッラーナが聞くと、兄が横から端末を覗いたが、何も言わなかった。
「ザーパット脳炎は、難民申請した力なき民全員を対象にして、九十八パーセントが済んだそうです。これで、帰国してからも安心ですよ」
クルィーロの笑顔には何の憂いも屈託もなかった。無邪気にワクチンの種類と難民キャンプ内での対象者、接種率を読み上げる。
……アミトスチグマ王国の国庫を凄く圧迫してるけど、これ、後でワクチン代返せってネモラリス政府に請求が行ったりとか?
アウェッラーナは市井の一薬師でしかなく、政府間の関係を気にしたところでどうにもできない。
将来、ネモラリス共和国が背負うであろう借金を今から気に病んでも、止められるものではない。
アミトスチグマ王国政府も、難民から自国民への感染を防ぐ為なのだから、請求するにしても満額ではないだろうが、先々の不安要素が増えた。
ワクチンで将来の病気を防げる。
戦災復興の人的資源を考えれば、大助かりだ。
戦災を免れた命が、疫病からも守られるのだから、借金してでも受けた方がいいに決まっている。
……私、何がこんなに心配なんだろう?
寝ても寝ても抜けない疲れのせいで、折角情報をもらっても、それをどう解釈してこれからどう動けばいいのか、頭が上手く働かなかった。




