1285.朝の押し問答
どうにか食事を終え、兄が空いた皿を持って村長宅の客間を出る。
足音が聞こえなくなるのを待って、アウェッラーナはそっと寝床を抜け出した。
いつもの服ではなく、知らない寝巻きだ。肌触りのいい生地には【魔除け】【耐寒】【耐暑】【耐衝撃】それぞれの最低限の呪印が淡い色で染めつけてあった。
カーテンを捲り、鎧戸を開ける。
冬の夜空はよく晴れ、星々が雪と見紛うばかりに天を埋め尽くす。
こうして星を見るのも久し振りだ。
ここしばらくは、日付もわからぬ程の忙しさに押し流されて過ごした。
……明日、フィアールカさんが来てくれるって言ってたわね。
吐く息が星明かりにくっきり白く見えた。
まだ十二月にはならない筈だが、ネモラリス島北部の気温の低さに気付き、モーフたち力なき民が心配になる。だが、この分では今のアウェッラーナは、薬師としての仕事をさせてもらえないだろう。
小さな雲を置き去りに窓を閉め、寝台へ戻る。
しっかり眠って体調を戻さないことには、保健室に入れてもらえない気がした。
朝食の麦粥とドライフルーツは残さず食べられた。
「フィアールカさんって今日、何時頃来てくれるの?」
「なるべく急ぐと言ってくれたそうだが……薬を仕入れる都合もあるだろうし、明日か明後日になるかもしれんぞ」
「大人しく寝てるから、フィアールカさんが来たら教えてくれる?」
「どうする気だ?」
兄の目に不安が増し、寝台に横たわったアウェッラーナの手を握る。
「会って色々聞きたいの。ワクチンの接種状況とか」
「それなら、後でクルィーロ君に見せてもらえばいい。あの機械に遣り取りの記録が残ってるって言ってたから、なっ?」
「えっ? そうなの? じゃあ今からでも見せてもらえるのね?」
アウェッラーナの明るい声に兄は泣きそうな顔で首を振った。
「どうして?」
「頼むから、後にしてくれないか?」
「どうして?」
「あんな小さい画面の字、目が疲れるだろう。頼むから、もっと元気になるまで待ってくれないか」
兄の手に力が籠もる。
案じてくれる気持ちは嬉しいが、随分と過保護な気がした。
……私だって、もう大人なのに。
常命人種の兄と長命人種のアウェッラーナとは、外見こそ祖父と孫のようだが、実年齢は五歳も離れていないのだ。子供扱いに苛立つモーフの気持ちが、なんとなくわかる気がした。
「でも、気になって寝られないんだけど?」
「今は魔法薬もわかる科学のお医者さんが居るから大丈夫だ」
「昨日も聞いたけど、どんな人なの?」
「結婚して【飛翔する梟】学派の癒しが使えなくなって、科学の医学を勉強した人で、【思考する梟】学派の魔法薬はまだ作れるって言ってたし、実際、保健室でも何個か作るのを見た」
兄の手がアウェッラーナの肩を押さえ、起き上ろうとするのを止める。
「画面の字がダメなら、フィアールカさんから直接、聞けばいいんじゃない?」
「運び屋さんと顔を合わせたら、何のかんの用事を言われるかもしれんだろ?」
この口振りでは、見舞いも断ったようだ。
……そんな人使い粗そうに見えるかな?
確かに頼み事はされたが、情報収集とその提供が中心だ。それも、お互い様の範疇に収まる気がする。
「それじゃあ、クルィーロさんに聞くのは?」
「そんなに気になるか? 休みの間は仕事のことなんか忘れて、休んでてくれないか?」
「この村には病院がないし、正式な仕事じゃないのよ」
「だったら余計、療養に専念してくれないか?」
涙を堪えた震え声で言われても、これだけは【思考する梟】学派を修めた医療者として譲れない。
「仕事とかそう言うんじゃなくて、私は、親切にしてくれた村の人、誰にも……治せる病気なんかで死んで欲しくないだけよ」
「ラーナに万一があったら、村の人たちは一生、後悔すると思うぞ?」
「アゴーニさんがこの村で仕事するコトになったら、私も一生、後悔するの!」
半世紀の内乱中、何人もの医療者から【思考する梟】や【青き片翼】【白き片翼】などの医術を必要に応じて教えてもらった。それでも、自身の錬度不足や物資の不足で何もできず、身内や近所の人を何人も見送らざるを得なかった。
遺族から責められ詰られたのも辛かったが、自身の無力もまた、身を切られるようだった。
もっときちんと学べたなら、もっと薬の素材があったなら……
救えた筈の命を忘れたことなどない。
平和になったくらいで忘れられる筈がなかった。
兄は笑顔を作ろうとしたようだが、何とも言えない顔にしかならず、疲れた声と共に肩を落とす。
「世話になったって言っても、お互い様じゃないか。通りすがりの村でも、そんなに気になるか?」
「お医者さんとの引継ぎもあるし、流行を終息させる動きがどのくらい進んだかとか、色々気になるの」
兄はアウェッラーナの肩から手を離し、横を向いて深い息を吐いた。眉間の皺を深くして歯を食いしばる。
アウェッラーナは、息を詰めて兄の返事を待った。
……兄さんがダメでも、村長さんの奥さんに頼んじゃえばいいよね。
閃いた案で口許が緩む。布団を引き上げて隠すと、兄がこちらを向いた。
「仕方のない奴だな。じゃあ、昼ごはんの後でクルィーロ君に頼んでみるから、大人しく寝ててくれよ」
「うん。ちゃんと待ってるから、よろしくね」
根負けした兄は、アウェッラーナの笑顔に弱々しい微笑を返して村長宅の客間を出た。
☆フィアールカさんが来てくれる……場所は村長の息子に教えてもらった「1083.初めての外国」参照
☆確かに頼み事はされたが、情報収集とその提供が中心……例「759.外からの報道」参照
☆半世紀の内乱中、何人もの医療者から(中略)医術を必要に応じて教えてもらった……「066.内と外の境界」「192.医療産業都市」「266.初めての授業」「717.傲慢と身勝手」参照




