0132.何もない午後
レノは、水の傘の下でパンを焼いていた。
薬師アウェッラーナが、【操水】の術でバケツの水を起ち上げ、板状に広げて支える。
ポツリポツリと降りだした雨は、すぐ勢いを増した。
二人はまだ戻らない。
雨を受け、水の傘が厚くなる。
アウェッラーナが傘の面積を広げ、飛沫が掛からないようにしてくれた。
レノは湖の民に目礼し、パン焼きに集中する。
急拵えの竈には、クルィーロの【炉】の炎が燃える。油性マジックで歩道に引いた線の外には熱が漏れなかった。
この時期には珍しい篠突く雨に道端の雑妖がざわめく。
日を遮る雨雲に守られ、活き活きとして、竈やフライパンによじ登る。
クルィーロがレノの隣に立った。紙片を手に小声で力ある言葉を唱える。さっきアウェッラーナに書いてもらった【退魔】の呪文だ。
場の穢れを祓うだけなので、雑妖などを直接、倒せるワケではない。それでも何もしないよりマシだろう。
クルィーロが結びの言葉を唱えると、真珠色の淡い光が広がった。濃度を増した汚らしい霧が、萎縮して二人から離れる。
「おっ、上手く行った」
彼自身、意外だったのか、拍子抜けした顔で声を弾ませた。
規則的な水音が近付く。
レノは音へ目を向けた。
雨で煙る歩道を、ふたつの人影が駆けて来る。
ロークと少年兵モーフだ。すっかりずぶ濡れだが、金属パイプを手にした顔は、少し誇らしげに見えた。
「お疲れさん。それ、取敢えずそこに置いて、すぐ乾かすからこっち来て」
二人がパイプを放送局の入口脇に置くと、湖の民の薬師は水の傘を入口まで伸ばした。魔法使いの工員が傘の下へ招じ入れ、【操水】の呪文を詠じる。
クルィーロの【操水】が、二人から水を抜く。髪と衣服が乾いただけで、かなり顔色がよくなった。
二人から抜いた水に周辺の水溜まりの水を加え、塵やゴミを排出する。キレイになった水を加温し、まず少年兵モーフを洗った。ズボンにこびり付いた灰混じりの泥が湯を濁らせる。
ゆっくり洗って、冷え切った身体を温めた。
「よし。終わった。濡れないように気を付けて帰ってくれよ」
クルィーロが声を掛けると、少年兵は無言で頷き、放送局に入った。
……まぁ、大人しく洗われただけでも、よかったよな。
レノは、モーフが何者であるか思い出し、思わず魔法使いのクルィーロを見た。幼馴染も同感のようで、目が合うと小さく頷いた。
クルィーロはすぐロークに視線を戻し、力ある言葉で水に命じた。
レノもパン焼きに集中する。
昼食は、焼き立てのパンと、乾物のキノコとハムの残りで作ったスープにした。
アウェッラーナが空中で飲料水を沸かし、キノコとハムを煮込む。
……料理するのに鍋とか要らないって、魔法ってスゲー便利だよなぁ。
レノは感心しながら、スープに塩と香辛料を加え、味を調えた。
食事を終え、紅茶を飲んでホッとする。
雨は一向に止む気配がない。
「今日は一日、ゆっくりしよう。外の作業ができんからな」
ソルニャーク隊長の声は、提案や命令ではなく、独り言のようだ。みんな小さく頷くだけで何も言わない。
……何か、気が抜けちゃったな。
レノは、ティスの頭を撫でながら、外の雨をぼんやり眺めた。
あの日から一週間、ずっと気を張り詰め過ごした。
剃刀がなく、少年兵モーフ以外の男性陣は、無精髭が伸びて人相が悪くなった。入浴と洗濯はできないが、クルィーロたちが魔法で洗ってくれるので、不潔ではない。
それでも取敢えず、安全そうな場所で、ふかふかの寝床がある。
安心して緊張の糸が切れたのか、満腹になったせいか、やけに眠い。
ティスがレノにもたれて、うとうとする。ピナも眠そうだ。
レノは、長椅子のひとつにティスを寝かせ、自分も横になった。ピナも同じ布団に入って来る。
目を閉じると、本当になんでもないような気がして、三人はすぐ、寝息を立て始めた。
☆【退魔】の呪文……「0015.形勢逆転の時」「0033.術による癒し」参照
☆二人はまだ戻らない/金属パイプ……「0131.知らぬも同然」参照
☆あの日から一週間……「第一章 印歴二一九一年二月一日」~「第七章 印歴二一九一年二月七日」参照




