1284.過労で寝込む
……あれっ? ここ、どこだっけ?
すっかり見慣れた保健室の白い天井ではない。
横たわる寝台には、白い転落防止柵がなかった。
見知らぬ部屋に視線だけを巡らす。
調度品の類は、年代物の木製の寝台と小さな書き物机と椅子だけだ。窓にはカーテンが掛かり、昼か夜かわからない。
戸の開く音と同時にスープの匂いが入って来た。
机にお盆を置いた兄が笑顔になる。
「ラーナ、目が覚めたか。スープ、自分で食べられそうか?」
「ここは……」
「村長さんちだ。今朝、例の運び屋さんが科学のお医者さんを連れて来てくれたから、もう大丈夫だ」
「あッ……! 患者さん!」
跳ね起きた途端、目の前に白い星がチラつき、一気に視界が白一色で埋め尽くされた。
兄の手が、俯いて動けなくなった薬師アウェッラーナの背をさする。
「いいんだ。もう心配しなくても大丈夫だ。みんな麻疹は治って、今は風邪か何かだ。バイ菌で病気になって重症の人は、抗生物質出してもらったから、もう心配ない」
「耐性菌だったら効かないのよ」
「ラーナが拵えた薬も、まだまだたんとある。来てくれたのはラクリマリスのお医者さんだから大丈夫だ。心配ない」
まだ目の前が真っ白だが、兄に顔を向けた。
「魔法薬が使える人なの?」
「魔法と科学、両方の薬を扱う資格を持ってるそうだ。結婚前は呪医で、【飛翔する梟】の術は使えなくなったけど、飲ませるだけでいい薬の使い方はちゃんと心得てる」
呪医の【飛翔する梟】学派は術と魔法薬を組合わせて治療する。
アウェッラーナが修めた薬師の【思考する梟】学派より強力な術が多く、適応する症例の幅も広い。その上、科学の医薬品を扱う資格もあるとは、一体どんな教育と訓練を受けたのか。
そんな都合のいい人物が、こんな田舎の無医村に派遣されるだろうか。
兄に何度も大丈夫と繰り返され、アウェッラーナは却って不安に駆られた。
「大丈夫だから、もう無理しないでくれよ」
「私が休んだら、患者さんが死んじゃうの」
「大丈夫だから」
「見殺しにして、のうのうと寝てろって言うの?」
ようやく戻った視界に兄の泣きそうな顔が映った。
「他人の為に働いて働いて、倒れるまで働いて、それでも働いて、そうやって俺より先に死ぬ気か?」
……そんなコト言われたって、代わりが居ないのに休めるワケないじゃない。
呪医は居るが、セプテントリオーは外科領域の【青き片翼】学派だ。
麻疹の流行で道路封鎖され、この無医村にも周辺の村々にも、巡回診療車が来られなくなった。
病院がある最寄のミャータ市とカーメンシク市で先に流行が始まり、戦争に医療者が取られたことと相俟って、小村にまで人手を割けないのだ。
通りすがりのアウェッラーナたちに縋るしかない村人は、決して裕福とは言えない中から治療の報酬を支払う。
当たり前と言えばそれまでだが、非常時に在ってその「当たり前」を実行する難しさは、半世紀の内乱中、イヤと言う程思い知らされた。
……ちゃんとした……いい人たちを助けたいだけなのに。
唇を噛んで俯くと、兄の震える声が耳を打った。
「ラーナが倒れたら、病人を助けたくても助けられなくなるだろ? 人助けだと思って、施療院のお医者さんが居る間くらい、休んでくれないか?」
「どうしてお医者さんが、王都の施療院からわざわざ外国の……こんな田舎に来るの?」
……フィアールカさんに頼まれたって、あっちはあっちで忙しいのに。
エランティスが入院した西神殿付属施療院も、医療者はみんな忙しそうだった。
「クルィーロ君が、あの何とかって機械でこの辺一帯の状況をアミトスチグマに居る人たちに伝えて、その人たちがフラクシヌス教団に働き掛けてくれたらしい。詳しい話はその内また、報告書が来るんじゃないか?」
兄の口振りに偽りはなさそうだ。
薬師を休ませるやさしい嘘ではなく、どうやら本当に両輪の医師が来てくれたらしい。
「活動に参加してる……えー、あれだ……何とかって……秦皮の枝党の議員さんが、口を利いてくれたって言ってたから、ラーナは心配しないで休んで大丈夫だ」
「秦皮の枝党……? クラピーフニク議員?」
「あぁ、そうそう。その人だ。議員さんも例の機械持ってるから、クルィーロ君の話が伝わったって、運び屋さんが言ってた」
「フィアールカさんってまだこの村に居るの?」
「昨日、お医者さんを連れて来てすぐ帰ったぞ」
「もう来ないの?」
彼女には、聞きたいことが山程ある。みすみす好機を逃したのが悔しかった。
「今日、クルィーロ君がお医者さんに足りない薬を教えてもらって、王都へ連絡しに行った。運び屋さんは早かったら明日、薬を持って来てくれるそうだ。心配いらないから、スープ食べてゆっくり寝てくれないか? なッ?」
兄は滔々と捲し立てると、深皿を手に取った。
緑青入りのとろりとしたスープに魚の肉団子が幾つもある。
「待って! 私、どれだけ寝てたの?」
「倒れたのは一昨日の昼過ぎだ。起きてスープ食べたの、憶えてないのか?」
兄の声が震える。
アウェッラーナは呆然と首を振った。
……全然、憶えてない。
「これって朝ごはん? 昼ごはん?」
「夕飯だ。今朝は起きなくて、昼に少し食べたのも憶えてないのか?」
兄の顔がますます曇り、書き物机に深皿を置き直した。
アウェッラーナは思考が回らず、兄に何と答えたものかわからない。
漁で日焼けした手が、薬師の白い手を包んだ。
「頼む。俺を置いて……先に逝かないでくれ」
老いた兄の目から涙がこぼれた。
☆運び屋さんが科学のお医者さんを連れて来てくれた/バイ菌で病気になって重症の人は抗生物質出してもらった……「1259.割当ては不明」参照
☆みんな麻疹は治って、今は風邪か何かだ……「1271.疲弊した薬師」参照
☆セプテントリオーは外科領域の【青き片翼】学派だ……「1242.蓄えた備えで」~「1246.伝わった流行」参照
☆麻疹の流行で道路封鎖……「1245.緊急事態対応」参照
☆エランティスが入院した西神殿付属施療院……「735.王都の施療院」「736.治療の始まり」参照




