1280.病室に逆戻り
死にそうな風邪はどうにか治ったらしいが、まだちょっと歩いただけでフラフラする。
モーフが「入院」する教室から、トイレまでのたった数メートルが果てしなく遠かった。
……なんで便所行ったくらいでこんな疲れてんだよ。
寝過ぎで腰は痛むが、何もしないのに起き上っているだけでジワジワ体力を消耗して、すぐ横になってしまう。
自分の身体を縦にするだけのことがやたらキツい。
少し前までは、何をするにもメドヴェージのおっさんに支えてもらわなければならず、一人では歩けもしなかった。
ゆっくりでも自力で歩けるようになったから、前よりはマシになったのだ。
……メシも自分で食えるようになったし。
少し前までは、薄くて不味いスープを魔法で喉の奥に流し込まれた。
一昨日からはベッドに身を起こして、お粥を自分で噛んで食べられるようになった。おっさんが匙で口に入れるが、寝たまま魔法で飲まされるよりマシだ。
「おぉっと」
待ち構えていたおっさんが、戸の手前で躓いたモーフを支えた。安心と心配がごちゃ混ぜになったヘンな顔で、モーフの背中をさする。
「やっぱ、便所までついてった方がいいンじゃねぇか?」
「一人で行って戻ったろ」
モーフが言い返すと、おっさんはそれ以上言わず、そっと手を離した。
背中のぬくもりが消え、急に心細くなったが、足下を見て慎重に歩く。
学校の床には躓く物など何もない。校舎には【結界】があるし、村人が魔法で浄化してくれるから、足を引っ張る雑妖も居ない。
……それで何で、このザマなんだよ?
おっさんに支えられて、やっとのことで寝床に入る。
ここは普段使わない教室で、隣は保健室だ。村人たちが空き家からベッドや布団を運んで置いてくれた。
モーフの他にアマナたちの父ちゃんと村人が五人、向かいの教室にも村人が入院中らしいが、人数までは知らない。
アマナたちの父ちゃんは寝ているらしく、隣のベッドはやたら静かだ。
少し前まで、ソルニャーク隊長も居たが、先に元気になってトラックに戻った。
モーフも一旦は元気になったが、風邪で死にそうになってここに連れ戻された。
どうやら、モーフがアマナたちの父ちゃんに移してしまったらしい。アマナと魔法使いの工員クルィーロは何も言わないが、メドヴェージのおっさんにガチ切れされた。
……ちょっとカーラムのツラ見に行っただけなのに。クソッ!
布団から目だけを出して外を見る。
窓の向こうは校庭で、隅の秦皮の木はすっかり黄葉した。
小鳥が一羽、秋色に変わった葉の間から青空に飛び立つ。
夏からこっち、ずっと閉じ込められてばかりだと気付いて、げんなりする。
魔獣の群が出るから移動放送のトラックが村に閉じ込められ、その後、疫病が出てどこにも行けなくなった。
モーフも病気になって、教室に「入院」させられ、何日もここから出してもらえない。
……やっと動けるようになったと思ったのにコレかよ。
ヒマでヒマで仕方がないが、自分のこともロクにできないのがもどかしい。
ピナたちは、薬師のねーちゃんの手伝いで、寝るヒマもないくらい忙しいが、看病される側のモーフには何ひとつ手伝えない。
考える内に惨めになってきた。
「坊主、どうした?」
「別に。何もねぇよ」
メドヴェージは眉を下げたが、それ以上言わなかった。
することがなく、できることもない。
考えまで同じ所をぐるぐる回って、どこへも行けない。
青空を流れる小さな雲を眺めていると、センセイが入って来た。
入口に近いベッドから順番に何か呪文を唱えて病人の手を握る。センセイが何か言って、一緒に来たピナが手帳に何か書き、次の患者に移った。
窓際のモーフは最後だ。
「おや、今日は起きられましたか。具合はどうです?」
「んー……何で熱も洟も咳もねぇのにこんなダルいんだ?」
「お薬で症状を抑えただけで、本当はまだ治っていないからですよ」
「薬スゲー……じゃあ、いつ治るんだ?」
「普通なら、もう治る頃ですが、今は麻疹のせいで色々と弱っていますからね。ある程度、体力が回復してからになるでしょう」
「どうすりゃ治るんだ?」
早く勉強しない教室から出て、みんなの居るトラックに帰りたい。
枕元で学校の椅子に座るセンセイの顔は、青カビだらけに見えた。
……そっか。湖の民ってヒゲも緑なんだ。
剃るヒマもないのか。疲れてその元気もないのか。
無精髭だらけ顔は両方に見えた。
モーフの手を布団に戻して答える。
「薬で症状を抑えた間になるべくしっかり食べて、ゆっくり眠って、無理しない程度に少し動いて、体力を回復させるくらいですね……それから、身体を冷やさないように」
最後に付け足したのは、モーフが力なき民で、魔法の服で寒さから身を守れないのを思い出したからだろう。
「ムリしねぇ程度ってどんくらい?」
「食事は、無理にたくさん食べても身体が受け付けなくて、却って衰弱してしまいますから、食べられないと思ったらそこで止めて、ベッドの上に座っているのも疲れを感じたら横になって休んで、何事も休憩を挟みながらして下さい」
「それじゃ、いつまで経っても、何も終わンねぇんじゃねぇの?」
「焦らず、少しずつ、寝ていない時間を増やすところからですね」
この呪医は、この間からそればっかりだ。
「一人で便所行って倒れたらアレだしよ、ついてってやっから遠慮すんな」
モーフは睨んでやったが、センセイはメドヴェージに頷いてみせた。
今度はベッドに閉じ込められた気がして、モーフの心がささくれる。
「坊主、外はもう寒いからな。出歩くんじゃねぇぞ」
おっさんは調子に乗って追い打ちを掛けた。
自分でも懲りたのだが、おっさんに言われるとムカつく。それなのに怒る気力もないのが情けなく、鼻の奥がツンとした。
さっきみたいに涙が出そうなのを悟られたくなくて、頭の先まで布団に潜る。
センセイの手が布団を軽く叩いた。
「先程【見診】した感じでは、お粥の他、少しなら、スープも大丈夫ですよ」
「わかりました。モーフ君は麦粥とお魚のスープ……っと」
ピナが書くのは、患者一人一人に合わせた食事だ。
「モーフ君、焦らないでゆっくり休んでてね……じゃ、お兄ちゃんたちに伝えて来ます」
ピナは返事も待たずに行ってしまった。
……もう何日、ピナと一緒にメシ食ってねぇんだ?
この教室で食べるのは、モーフ、アマナの父ちゃん、湖の民のおっちゃん五人とモーフに付き添うメドヴェージだけだ。
寝込んでるおっちゃんたちには、他の村人が交代で緑色のお粥を作って食べさせに来る。モーフたち三人は陸の民なので、ピナの兄貴と漁師の爺さんが、緑青ナシのお粥を別に作ってくれた。
☆ちょっとカーラムのツラ見に行っただけ……「1252.病で知る親心」→「1271.疲弊した薬師」参照
☆魔獣の群が出るから移動放送のトラックが村に閉じ込められ……「1057.体育と家庭科」参照
☆その後、疫病が出てどこにも行けなくなった……「1242.蓄えた備えで」参照
☆ピナたちは、薬師のねーちゃんの手伝いで、寝るヒマもないくらい忙しい……「1271.疲弊した薬師」参照




