1279.愚か者の灯で
老婦人シルヴァが一言断って手洗いに立つ。
仲間を呼びに行った可能性もあるが、老人とは言え、女性のトイレについてゆくのは憚られる。
レノたちはカフェの個室で、老いた足がゆっくり階段を降りる音が聞こえなくなるまで待った。
「ヂオリート君、愚か者の灯って知ってる?」
「おろかもののひ? 俺が愚かだと言うのですか?」
レノの質問を侮辱と解した声が怒気を含む。
「あ、君、ネーニア島の子じゃないんだね」
クルィーロが気付かないフリで明るく言うと、少年は再度の失言に唇を噛んだ。
金髪の魔法使いは何でもないことのように続ける。
「島に昔からある言い伝えだよ。ずっと昔の冬のある日、旅人が近道するつもりで島を横断したんだけど」
「ネーニア島がどんな島か知ってる? 地形とか」
レノが聞くと、ヂオリートは弱々しく首を横に振った。
クルィーロが説明を付け加える。
「クブルム山脈の南はツマーンの森と少しの平野、北はレサルーブの森と湿地帯で、人が住めるのは沿岸部の狭い平野だけなんだ」
「今も開拓されていないのですか?」
「開拓できないんだよ」
レノは普通の質問にホッとして答えた。
「何故です? 農地が増えれば、それだけ豊かになるでしょう?」
「愚か者の灯がいっぱい居るからね」
レノの答えに黒髪の頭が小さく傾いた。
「いっぱい……居る?」
「魔物だよ。そう呼ばれる種類」
深緑の目が「最初からそう言え」と言いたげに鋭さを増したが、レノは構わず続けた。
「湿地帯に住んでるんだ。で、街への到着が遅れた旅人とかが、暗くなった湿地を歩いてると……」
冬の夕暮れはどんどん暗さを増し、辺りに雑妖が漂い始める。
魔法の服で寒さは大丈夫だが、早く人が住む所に行かなければ危険だ。
ふと気が付くと、行く手にポツンと点る小さな灯が見えた。
旅人は猟師小屋か、自分と同じ旅人か、それとも地元の狩人だと思い、助かったとばかりに湿地帯の道なき道を急ぐ。雑妖が邪魔で、足下は見えない。
そうこうする内に霧も出た。暗さが増すにつれて雑妖が濃くなり、霧なのか雑妖なのかはっきりしなくなる。目印は遠くの頼りない灯だけだ。
やっと灯の傍に着いたが、その寒灯は猟師小屋ではなく、人が持つものだった。
人影はじっと動かない。霧に巻かれて旅人に気付かないのかと声を掛けたが、返事がない。更に近付くと、踏み出した足が地にめり込んだ。
「何故、そんなことに?」
「沼だよ。湿地帯によくある」
旅人が焦って足を抜こうとすると更に嵌り、あっと言う間に膝まで沈んだ。
今回の旅は諦めて、よく知る場所へ戻ろうと【跳躍】を唱えたが、何故か術が発動しない。
「ヂオリート君って力なき民だよね?」
レノが聞くと少年は頷いた。
魔法使いのクルィーロが重ねて聞く。
「じゃあ、【跳躍】がどんな術か知ってる?」
それには首を横に振った。
クルィーロが術の効果と使用条件、それに【跳躍】除けの結界と街の中にある許可地点のことを簡単に説明する。「推定・神学生」のヂオリートは、遮らず魔法の説明に耳を傾けた。
……シルヴァさん、遅いな。
レノはこれ幸いと昔話を続ける。
「旅人は【跳躍】できなくて焦って動こうとするけど、ますます泥に沈む」
「何故、灯を持つ人は助けてくれないのですか?」
旅人は勿論、霧の中で灯を持つ人影に助けを求めた。
やっと気付いたのか、灯が泥沼に捕われた旅人に近付く。
霧の中、灯で浮かび上がったのは、沼地から伸びた長い口だった。象の鼻のような口が木の棒を横向きに咥え、沼の泥を纏って人影のように見せたのだ。
灯は魔物が沼の燐光を操ったもので、身体全体を沼に沈め、口だけ出して獲物を待ち構える。
旅人は何度も【跳躍】を唱えて逃げようとしたが、この魔物「愚か者の灯」の背中の上では、結界同様【跳躍】や【飛翔】など移動に関する術が使えない。
「身動き取れない旅人は、遠回りでも船で行けばよかったって、後悔しましたとさって昔話だ」
「その旅人は食べられてしまったのに何故、詳しい状況や後悔が後世に伝わったのですか?」
「なかなか鋭いな、君。冷静になれば【操水】で沼の水を集めて泥を分離して脱出できるんだよ。魔物が封じるのは移動系の術だけだから」
クルィーロが苦笑交じりに神学生を褒める。
「戦い系の魔法が使えたら、魔物をやっつけられるし」
ヂオリートは難しい顔で黙った。
クルィーロが軽い調子で続ける。
「で、水を操ってギリギリ逃げ切れた別の旅人が、こんな怖い目に遭ったってみんなに伝えて、行方不明になった人は愚か者の灯に食われたんだろうなって納得したってワケだ」
ヂオリートは顔を曇らせた。
「助かるのは、魔法使いだけなんですね」
「そうだよ。魔法使いだって戦い方を知らなかったり、焦ってまともに判断できなくなったら食べられるんだ」
クルィーロが自嘲気味に言って鎮花茶を啜った。
レノはクルィーロの深緑の瞳をじっとみつめる。
「それに、俺たち力なき民はそもそも、内陸部を徒歩で移動しようなんて思わないだろ?」
階段の足音に神経を傾けながら続ける。
「この話は、聞いた通り“急がば回れ”ってのの他にも教訓があるんだけど、気が付いた?」
ヂオリートは少し考えて何か言おうとしたが、階段を昇る足音に気付いて口を閉ざした。レノも何食わぬ顔でお茶を飲む。
「男の子同士、気兼ねなくお話できたかしら?」
「ネーニア島に出る魔物の話をしただけですよ」
「島の中央部は湿地帯で、旅人が食べられたそうなのですが」
クルィーロの説明にヂオリートが不安げに付け足す。
老婦人シルヴァは微笑み、怖がる孫を宥めるような声音で言った。
「岸辺には女神様のご加護がありますからね、そんな魔物は滅多に出ないわ」
「あ、そうだ。さっきお店の人が、アーテルで通信障害がどうのとか言ってたんですけど、ランテルナ島は大丈夫ですか?」
レノが思い出したようなフリで聞く。
老婦人シルヴァは少し困った微笑を浮かべ、僅かに頭を振った。
「あの別荘には電話がありませんからね。何かあってもわからないのよ」
……答える気はないってコトか。
レノたちは軽く世間話をして話題を流すと、二人分ずつに分けた伝票の一方を取って別れを告げた。




