1259.割当ては不明
クフシーンカは、弟の筆跡で宛名が書かれた封筒を急いで開披した。
宛名と弟の呼称以外は全て活字だ。
僅かな肉筆は、やや震えて揺らぐ。
弟の身体の衰えに過酷な状況が窺えたが、内容はそれどころではなかった。
何かの間違いではないかと老眼鏡を拭いて掛け直す。
印刷の文字は見間違いようがなく、はっきり読めた。
「カーメンシクで麻疹ですって? では、もうこちらの港湾労働者も……」
「少なくとも、船員さんたちはワクチン強制接種の対象だから」
「出稼ぎの荷役の人も、船で来るのだけれど?」
「あー……それは……どうなのかしら?」
運び屋フィアールカは、この手紙だけを携えて来た。
クフシーンカが一人になるまで見張っていたのか、来客が帰った途端、奥の部屋に現われたのだ。
リストヴァー自治区東部の過密と栄養状態は、かなり改善されたが、医療は未だに不充分だ。
開戦前は弟の尽力でどうにか各種ワクチンを取り寄せられたが、首都クレーヴェルで議員宿舎に軟禁されてからは、一種類も届かなくなった。
寄付で届くのは、包帯や消毒薬、自治区外なら薬局で手軽に買える一般的な大衆薬だ。それはそれで有難いが、ワクチンだけではなく、医師や薬剤師の処方が必要な薬も全く届かない。
「合併症と後遺症を防いで、致死率を下げられるお薬があるんだけど、魔法薬なのよね」
「黙っていれば、わからないのではなくて?」
「調合して時間が経つと劣化して効力が落ちるから、その都度、患者の年齢や体格を見て量を加減して混ぜなきゃいけないのよ」
今の自治区民なら、魔法使いの薬師を受け容れられるだろう。
だが、未だに星の標の歪んだ思想と信仰が抜けない者も居る。
表向きは、フェレトルム司祭たちに従うフリをしても、内心は知れたものではなかった。
「……薬師さんの身の安全をお約束できません」
「そう……トポリ空港からは、軍の輸送ヘリで東教会まで運ばれる予定よ」
聖星道リストヴァー病院と、リストヴァー大学医学部付属病院には、ヘリポートがない。
他の救援物資同様、教会の庭で荷降ろしするのだと言う。
弟の手紙には、輸送経路の記述がない。
緑髪の運び屋が独自に入手した情報だろう。
手紙には製薬会社の納品書もあった。
品名は麻疹ワクチン。品番の隣の数量欄は空白だ。
「自治区にどれだけ割当てられるかわかんないけど、病院には数字誤魔化して納品してくれないかしら?」
何でもないことのように書類の偽造を頼まれた。
手紙には、クブルム街道の山小屋にも置いて欲しい旨、認めてある。
ネミュス解放軍クリュークウァ支部長カピヨーの部下が、責任を持って回収するらしい。
「ネモラリス島北部や首都周辺は、臨時政府より解放軍の勢力が強いのよ」
「保健省は、麻疹が出たカーメンシクに届けられないかもしれないのね?」
「そう言うコト。市長の判断で道路封鎖、港と【跳躍】の規制をして拡散を防ごうと努力はしてるけど、既に周辺の村には広がったわ」
白髪に覆われた頭の中で話が繋がった。
「建築資材は、トポリやキパリースにも、たくさん輸送されてるわね」
「ご明察。空港があるトポリで使って、カーメンシクまでは、回らない可能性が高いわ」
「つまり、ワクチンを融通しないと自治区の復興も進まないと言うコトね?」
「そう。治った後も抵抗力が落ちるから、抗生物質とかは私の方でも手配できないか、頑張ってみるけど、どう? できそう?」
クフシーンカは考える。
暖房のない部屋の寒さが老身に堪えるが、緑髪の彼女を外から見える部屋へ移動させるのは憚られた。
「私ひとりでは無理だから、ウェンツス司祭様と相談させて下さいな」
「東教区の司祭ね?」
クフシーンカが頷くと、運び屋は手紙を補った。
「お婆ちゃんたちが横流しできても、できなくても、カピヨー支部長の部下は予定通り、対症療法用の処方薬を置いて行くわ。勿論、科学のお薬よ」
「有難うございますとお伝え下さい」
湖の民の運び屋は、にっこり微笑んでどこかへ跳んだ。
寝室に移動して暖房を点けた。
弟の手紙を読み返し、姉の身を気遣う言葉を指でなぞる。
……自治区で流行れば、アーテルが臨時政府を叩く口実を与えてしまうわ。
フェレトルム司祭がインターネットを通じて大聖堂に救援を求めれば、世界中に知れ渡る。アーテルだけでなく、バルバツム連邦など他のキルクルス教国にも批難されるだろう。
自治区民への人道支援を口実に国連の介入を招けば、一旦は大人しくなった星の標が、息を吹き返す懸念があった。
……でも、カーメンシクにもワクチンを回さないことには自治区……いえ、国全体の復興が進まないのよね。
防壁の復旧工事や街の復興は、ネーニア島の立入制限区域や、空襲の酷かった北西部から逃れた国内難民の就労支援事業も兼ねる。
資材の欠乏で工事が中断すれば、日当が払われなくなり、食い詰めた者の中からネモラリス憂撃隊に身を投じる者が出ても不思議はなかった。
……実際、来てみないことにはね。
ワクチンがどれだけ割当てられるか、弟も運び屋も情報を掴めなかった。
☆船員さんたちはワクチン強制接種の対象……「1175.役所の掲示板」参照
☆開戦前は弟の尽力でどうにか各種ワクチンを取り寄せられた……「1247.絶望的接種率」参照
☆首都クレーヴェルで議員宿舎に軟禁……「253.中庭の独奏会」参照
☆調合して時間が経つと劣化して効力が落ちるから、その都度、患者の年齢や体格を見て量を加減……「1246.伝わった流行」参照
☆既に周辺の村には広がった……「1242.蓄えた備えで」~「1246.伝わった流行」参照
☆フェレトルム司祭がインターネットを通じて大聖堂に救援……「1239.見えない命綱」参照
☆防壁の復旧工事や街の復興は(中略)国内難民の就労支援事業も兼ねる……「1175.役所の掲示板」参照




