1258.揺さぶる伝言
「ワクチン輸入と自治区への分配の件、ザミルザーニィ大使に深く感謝しておりますとお伝え下さい」
ラクエウス議員はイーニー大使に依頼して、駐アミトスチグマ王国ネモラリス共和国大使館を辞去した。
ザミルザーニィ大使とは、全く知らぬ仲ではない。
アルトン・ガザ大陸南部のルニフェラ共和国への赴任が決まった際、キルクルス教の習慣や禁忌について教えを乞われた。
彼の国は比較的、力ある民が多い両輪の国だが、かつてバルバツム連邦の植民地だった為、力なき民はほぼ全員がキルクルス教徒だ。
ラクエウス議員の知識がどの程度、任地で役立ったか定かでないが、こうして自治区にもワクチンを手配してくれる程度には、感謝の念を抱いたらしい。
支援者のマリャーナ宅へ戻る道すがら、異国の景色を眺める。
街路樹の秦皮はすっかり黄葉したが、落葉にはまだ遠い。日射しを浴びて黄金色に輝く葉が家々の白壁に映え、若葉とは趣の異なる景観を作り出した。
……来年も、こうして黄葉を眺められるのか。
自治区の南に連なるクブルム山脈も、今頃は見事な紅や黄を纏う頃だろう。
姉との再会や、生きてリストヴァー自治区の土を踏むのは、とうの昔に諦めがついたが、深まりゆく秋の景色はそんな諦念を易々と吹き払い、郷愁と感傷を呼び起こした。
老議員は、寒さで痛む膝を庇いながら、モルコーヴ議員との待合わせ場所まで歩みを進めた。
「ラクエウス先生、お疲れさまでした」
「どうでした?」
モルコーヴ議員の【跳躍】で支援者マリャーナ宅へ戻ると、自治区出身の少女二人が期待と不安の混じる顔で出迎えた。
ラクエウス議員の気は逸るが、老いた足は思うように進まない。
お茶の準備が整えられた部屋で、ソファに身を預けると、我知らず深い溜め息が漏れた。
針子の少女二人とファーキル少年、両輪の軸党のアサコール党首とモルコーヴ議員が、気遣わしげに見守る。
針子のアミエーラの青い瞳が揺れた。
「あの、先生、お疲れでしたら、明日にしましょうか?」
「いや、いい。大丈夫だ」
……儂の寿命が、明日まで残っておるとは限らんのだからな。
ラクエウス議員は片手を挙げて笑ってみせ、大使館での首尾を話し始めた。
「儂の発言であるのは伏せた上で、イーニー大使に本国の臨時政府へ伝言してもらった」
「何を頼んだんです?」
誰よりも先にファーキル少年が質問した。
「うむ。アーテルの開戦理由は、自治区民の救済だ。多額の寄付とネモラリス政府の便宜で、以前とは比べ物にならんくらい生活の質が向上した。しかし……」
息切れがして、香草茶を一口啜って続ける。
「開戦前は、儂が定期的に大聖堂やバルバツム連邦の医師会、ボランティア団体などにワクチンの輸送を依頼しておった」
「戦争で連絡と輸送ができなくなったのですね?」
お茶を啜って息継ぎするラクエウス議員に代わって、アサコール党首が続けてくれた。
どうにか頷いて話を進める。
「それでも例年、不足が生じた。特に自治区東部では、あらゆるワクチンの接種率が低い」
アミエーラが表情を消して微かに首を動かす。
彼女の弟妹はみんな、幼い頃に流行病で亡くなった。
リストヴァー自治区では、清潔な水が高価だ。汚れた水を媒介にする病で命を落とす者は多い。
「えっと、でもそれって、働く子は学校の予防注射も休むし、足りないからってワケじゃ……」
サロートカがしどろもどろに言うが、ラクエウス議員は力なく首を横に振った。
ワクチンが充分に行き渡れば、救えた命もあった筈だ。
ラクエウス議員は、力不足の情けなさを飲み下して言った。
「今、自治区で疫病が流行すれば、大聖堂から派遣されたフェレトルム司祭を通じて惨事の情報が拡散し、キルクルス教社会が、ネモラリス臨時政府を糾弾する口実を与えてしまう……そう警告するように“助言”したのだよ」
「成程。カーメンシク市で麻疹の流行が発生しましたからね」
「少なくとも、保健省のお役人は震え上がったことでしょう」
アサコール党首とモルコーヴ議員は納得したが、少年少女は首を傾げた。
ファーキル少年がタブレット端末をつつき、針子の二人が両側から覗く。
サロートカが画面から顔を上げた。
「自治区とカーメンシク市って凄く離れてますよね?」
「カーメンシク市では、鉄鋼や建築資材をたくさん作っているのよ」
モルコーヴ議員の説明でも、ピンと来ないらしい。疑問の目が、老議員と赤毛の女性議員を往復する。
「カーメンシク市から、ゼルノー市のグリャージ港まで、魔道機船でその資材を運ぶ。自治区の復興事業で使うから、潜伏期間中にウイルスが広まった可能性があるんだよ」
アサコール党首が静かな声で付け加え、アミエーラとファーキルが息を呑む。
サロートカが、涙を溜めた目でラクエウス議員を見た。
「間に合うんですか?」
「無理だろうな。だが、打てる手は全て打たねば、疫病の犠牲者が少なく済んだとしても、国は滅びるやも知れん」
「ファーキル君、姉に手紙を送りたいのだが、今から言うことを印刷してくれんかね? 儂が自分で書くより、君に入力してもらう方が早い」
「いいですよ」
「署名だけは儂がしよう」
お茶を持ってパソコンの部屋へ移動した。
☆モルコーヴ議員との待合わせ場所……「1117.一対一の対話」参照
☆アーテルの開戦理由は、自治区民の救済……「0078.ラジオの報道」「0154.【遠望】の術」「284.現況確認の日」「340.魔哮砲の確認」「568.別れの前夜に」「678.終戦の要件は」参照
☆以前……「017.かつての患者」~「019.壁越しの対話」「027.みのりの計画」「031.自治区民の朝」「276.区画整理事業」「539.王都の暮らし」参照
☆儂が定期的に(中略)ワクチンの輸送を依頼……「1247.絶望的接種率」参照
☆彼女の弟妹……「0090.恵まれた境遇」「172.互いの身の上」参照
☆カーメンシク市……「1039.カーメンシク」「1246.伝わった流行」参照




