1247.絶望的接種率
「クルィーロ君、この村の状況、王都の神殿とアミトスチグマのみんなに伝えてくれないかな?」
主に午後の往診を手伝うレーフが、保健室の手伝いを交代すると申し出た。
「王都に行かれるんでしたら、素材の買出しもお願いします」
「えっ? もうないんですか?」
「まだ大丈夫ですけど、念の為」
薬師アウェッラーナは言いながら、すっかり行きつけになった王都ラクリマリスの素材屋何軒かの店名と、そこで買う素材の種類と数をメモする。
保健室で患者対応をする薬師アウェッラーナ、呪医セプテントリオー、手伝いのクルィーロ、往診に付添うDJレーフ、老漁師アビエースだけでなく、会計担当のジョールチと医療廃棄物を燃やす葬儀屋アゴーニも、毎日念入りに鼻の奥や気管まで【操水】で洗ってから移動放送局のトラックに戻る。
アウェッラーナは、この洗滌を気休めだと言うが、何もしないよりは安心だ。
今のところ、トラックには発症者が居ないが、もし移ったら、荷物でギュウギュウのここではゆっくり看病できないだろう。
「えっと、俺一人じゃアレなんで、レノ、一緒に来てくれないか?」
「俺はいいけど、クルィーロは俺で大丈夫か?」
「うん。忙しくて無理?」
「いや、全然。行くよ」
先にカーメンシク市で麻疹の流行が発生し、市当局の通行規制で先生たちは出勤できない。
村唯一の小中一貫校が休校になり、レノは家庭科講師の仕事がなくなった。
みんなの食事を作ったり、村人の畑仕事を手伝ったりと、暇ではないが、忙しいとも言えない。
支度を整えた二人は、念入りに洗われた。
「発病して咳やくしゃみをするのでなければ、移す心配はないんですけどね」
「それでも、一応、洗ってもらった方が安心です」
二人を洗った薬師アウェッラーナは、複雑な微笑を浮かべた。
「ラクリマリス王国なら、万一があっても、こっちよりワクチンを手に入れやすいでしょうから、大丈夫ですよ」
「それでも、難民を助けてくれる国にこれ以上迷惑を掛けるのってイヤですよ」
レノが言うと、移動放送局見落とされた者のみんなは頷いて二人を送り出した。
王都ラクリマリスの水路を行き交う舟の客は、みんな明るい顔だ。
肩の力が抜けて丸く吐いた息が、小さな雲になって青空に溶ける。
レノは、外の様子を見て初めて、村の空気が重苦しかったのだと気付いた。
運河を吹き抜ける風は冷たいが、畔を歩く人も、渡し舟の客も、レノのように着膨れた者など一人も居ない。ラクリマリス人の大多数が、魔法使いだからだ。
一緒に乗るクルィーロも、運び屋フィアールカにもらった魔法の服で、見た目は軽装。アマナが編んだマフラーを巻くのは、寒さを防ぐ為ではなく、妹への気遣いだろう。
クルィーロが電源を入れた途端、端末が震えた。
「メール、スゲー溜まってた」
幼馴染はそう言って、インターネット設備のないネモラリス領でバタバタする間に来たものを読み始めた。
レノは、薬師アウェッラーナの買物メモを手帳に挟んで王都を眺める。
街路樹の秦皮はすっかり葉を落としたが、樫は青々として、まだ残るドングリを鳥が啄む。見える範囲にマスク姿の人は居なかった。
……戦争にちょっと巻き込まれても、基本的に平和だから病院がちゃんと機能して、魔法ですぐ治してもらえるんだろうな。
手伝いのクルィーロたちは交代で休めるが、代わりが居ない薬師アウェッラーナと呪医セプテントリオーは、最初の患者発生から十日以上休みなしで働き詰めだ。
呪医は、アウェッラーナがプロの薬師だとバレないように気を遣い、本人も神経をすり減らしながら診療する。
精神的な負担は、いつも以上に大きいハズだが、休むに休めなかった。
……鎮花茶、たくさん買い置きがあってよかった。
買ったのも、モーフを捜しに行ったアウェッラーナだ。
力なき民の自分に何ができるのか。レノはこっそり溜め息を吐いた。
「あ! ヤバ!」
「どうしたんだ?」
クルィーロを見ると、血の気の引いた顔と一緒にタブレット端末を向けた。ロークからファーキル、ファーキルからロークとクルィーロに宛てたメールだ。
ロークがファーキル宛に「リストヴァー自治区の予防接種実施状況をラクエウス議員に聞いて欲しい」旨を送り、ファーキルは、質問者のロークだけでなく、自治区出身者と行動を共にするクルィーロにも返信した。
「えっ……これって……」
リストヴァー自治区の設立に尽力したラクエウス議員は、三十年間ずっとキルクルス教徒の街を見守ってきた。
老議員の回答には、悔しさが滲む。
半世紀の内乱からの和平成立後、最初の一年は、世界保健機関などからワクチンが無償提供された。
当初、一歳から六歳までの幼児には接種できたが、自治区への割り当て分を使い切り、その年の後半に移住して来た者の分は足りなくなった。
二年目以降は、ネモラリス中央政府保健省の防疫政策から切り離された。現在でも、国の定期接種ワクチンは、どの種類も、自治区には回されない。
人口過密地域の東部バラック地帯で、乳幼児死亡率は目を覆いたくなる惨状だったが、「自治」を選択した以上、自力で調達しなければならない。
ラクエウス議員は、首都クレーヴェルの国会に出る度に国際郵便を送り、大聖堂や彼が知る限りのキルクルス教団体に援助を求め続けた。
聖星道リストヴァー病院の設立など、多くの支援は得られたが、それでも二十年以上に亘り、慢性的なワクチン不足の悩みは尽きない。
また、小学校で強制接種を実施しても、貧しさ故に働きに出て、接種日に欠席した児童は受けられなかった。
リストヴァー自治区――特に東部でのワクチン接種率は、絶望的に低い。
それが、自治区唯一の国会議員からの回答だった。
☆市当局の通行規制で先生たちは出勤できない……「1053.この村の世間」「1242.蓄えた備えで」「1245.緊急事態対応」参照
☆村唯一の小中一貫校が休校……「1245.緊急事態対応」参照
☆運び屋フィアールカにもらった魔法の服……「1106.ふたつの契約」参照
☆鎮花茶、たくさん/買ったのも、モーフを捜しに行ったアウェッラーナ……「0975.ふたつの支部」参照
☆ロークがファーキル宛に「リストヴァー自治区の予防接種実施状況をラクエウス議員に聞いて欲しい」旨を送り……「1202.無防備な大人」参照
※ 「1245.緊急事態対応」でセプテントリオーが失念したのはこのメールの件。
☆半世紀の内乱からの和平成立後、最初の一年……自治区外は「1202.無防備な大人」参照
☆聖星道リストヴァー病院……「0014.悲壮な突撃令」参照




