1242.蓄えた備えで
恐れたことが現実になったが、薬師アウェッラーナは自分でも意外なくらい冷静に行動できた。
薬の備蓄と周辺住民への情報提供。
既に打てる手を全て打ち、悔いがないのが大きいのだろう。
アウェッラーナは、薬師の証【思考する梟】学派の徽章を服の中に隠して“呪医の助手”のフリで通す。
……ワクチンは間に合わなかったけど、混乱と暴動さえなければ、割と何とかなるものなのね。
今のところ子供たちは無事だが、校長の判断で村唯一の小中一貫校は休校になった。麻疹の流行が発生し、カーメンシク市に住む先生たちが出勤できなくなったからだ。村に住む校長先生と音楽の先生だけでは授業が回らない。
この付近の流行は、カーメンシク市から発生した。市当局が道路封鎖と【跳躍】での移動に制限を掛け、今は西にも行けない。
村を出られるのがいつになるかわからないが、通りすがりではなく、地元民と良好な関係を結べたここでよかったと思える。
「アウェッラーナさん、二番のお薬をお願いします」
「はい」
呪医セプテントリオーの指示で、番号を貼ったガラス器の水薬を量って、紙コップに移す。素焼の壺から薬匙で取った粉薬を二種類、紙コップにそっと注ぐと、反応が始まった。保健室に満ちた匂いが濃くなる。
アウェッラーナは、呪医が書込んだカルテを手に取った。
患者は四十六歳、男性。現在の体温は三十八度。
本人によると三日前から咳と洟、熱が出始めた。
セプテントリオーは外科の【青き片翼】学派だが、内科領域の【白き片翼】学派も【見診】の術は使える。
クリュークウァ市で、ネミュス解放軍のカピヨー支部長に状況を聞いた後、薬師アウェッラーナは、麻疹の鑑別方法を呪医セプテントリオーに詳しく説明した。
術を使って、患者の中で何が進行中かわかっても、知識がなければ「病気」の診断はできないのだ。
「二番の薬」は「麻疹の疑い」の符牒で、容器の中身は栄養剤だ。
“呪医の助手”の手許を見る患者の目は、充血で赤い。緑色の髪はやや色が抜け、光の当たる部分が黄緑に見えた。
アウェッラーナは患者の様子を肉眼で観察して、呪医の【見診】による診断を確認後、何種類も作り置きした薬を組合わせる。
反応が収まった紙コップを白衣姿のセプテントリオーに渡した。
ティッシュで洟をかんで一段落した男性が、期待と不安の入り交る顔で呪医の手許を見る。
「非常に苦いですが、頑張って、残さず飲み干して下さい」
「これを飲めば……治るんですね?」
「この他にも粉薬と丸薬と水薬を出します。熱が下がっても、家から一歩も出ないで安静にして下さい」
「あの……今の時期……畑が……忙しいんですけど……」
「薬で熱が下がっても、外出すれば他の人たちに移す危険性があります」
咳込みながら言った男性は、呪医の厳しい表情に肩を落とした。
付添いの女性が患者の背を撫でさすり、呪医に視線で縋りつく。
「フラフラで、ここに来るだけでも精一杯でしょう?」
男性は力なく頷き、付添いの女性が不安な目で呪医を見る。
「麻疹になると抵抗力が落ちるので、熱が下がってすぐに畑仕事をするのは危険です。普段は平気な病原菌にも負ける惧れがあります。ラジオの日にお渡しした説明書をもう一度、よく読んで下さい」
アウェッラーナは薬用の袋に薬を詰めながら、患者と付添いを観察する。
二人が神妙な顔で頷くと、呪医セプテントリオーは表情を和らげた。患者が目を瞑って一息に薬を飲み干す。
頓服の解熱剤は、クルィーロが手伝ってくれた粉薬だ。
この患者用に一回分ずつ組合せた丸薬を薬包紙の小袋に入れ、ホッチキスで口を止める。薬包紙の小袋は、移動放送局の子供たちが作ってくれた。
小袋を大きめの紙袋にまとめ、頓服の小袋、目盛入りの瓶に詰めた水薬を説明書と共に渡す。
受取った呪医は薬をひとつずつ示して、説明書通りに服用方法を指示した。付添いに薬と説明書を手渡し、患者に向き直って、噛んで含めるように言い聞かせる。
「それでは、なるべく栄養のあるものを食べて、食欲がない場合は緑青飴だけでも舐めて、お薬をきちんと九回分飲んで、ゆっくり休んで下さい」
「三日で治るんですね?」
「もう一度、来て下さい。様子を見て次のお薬をお出しします。起き上れないようでしたら、往診します」
「……はい。有難うございます」
「しっかり寝かしつけますんで、またよろしくお願いします」
二人が保健室を出ると、呪医は紙コップを傍らのゴミ袋に捨てた。そろそろ満杯だ。医療廃棄物は、一日の終わりにまとめて葬儀屋アゴーニが焼いてくれる。
栄養剤に溶いて飲ませた二種類の薬は、肺炎と脳炎を防ぐものだ。
二百年くらい前にチヌカルクル・ノチウ大陸東部で開発された比較的新しい魔法薬で、この辺りの大学で教えるようになったのは、半世紀の内乱の少し前からだ。
麻疹そのものは治せないが、これのお陰で魔法文明圏での死亡率は激減した。
……科学のお医者さんは居ないし、抗生物質もなくて細菌の二次感染とかは心配だけど、なんとかなるよね。
魔法薬は可能な限り作った。充分行き渡る筈だ。
「次の方、どうぞー」
薬師アウェッラーナは自分に言い聞かせながら、待合室に使う空き教室に声を掛けた。
☆薬の備蓄……「1175.役所の掲示板」「1126.癒せない悩み」「1188.繰り返す悪事」「1189.動きだす状況」「1201.喜びと心配事」「1223.繋がらない日」参照
☆周辺住民への情報提供/ラジオの日にお渡しした説明書……「1211.懸念を伝える」「1212.動揺を鎮める」参照
☆カーメンシク市に住む先生たち……「1053.この村の世間」参照
☆患者は四十六歳……「1202.無防備な大人」参照
☆ネミュス解放軍のカピヨー支部長に状況を聞いた……「1205.医療者の不在」「1211.懸念を伝える」「1228.安全な場所は」参照
☆頓服の解熱剤は、クルィーロが手伝ってくれた粉薬……「1228.安全な場所は」参照




