1228.安全な場所は
クルィーロが宿に戻った。
「俺でもできることがあったらお手伝いしますよ」
「どうしたんです?」
「インターネットが繋がらなくて、新聞も売切れてたんですよ」
「えっ? 故障ですか?」
薬師アウェッラーナは熱冷ましを量る手を止め、クルィーロをまじまじと見た。青年の困った顔は迷子に似て、声が微かに揺れる。
「誰かが中継局や交換局を爆破したせいで、回線が細切れになったそうです」
「そんな……」
「どこの誰の仕業か不明。四十箇所くらいやられて、その全部に魔獣が出て、救助隊とか近付けないそうです」
「その魔獣って……」
驚きのあまり言葉が続かない。
「多分、何かの術か呪符で召喚したんじゃないかって……」
アウェッラーナはアクイロー基地襲撃作戦を思い出し、薬匙を握る手が震えた。
戦闘に参加した三人からは断片的にしか聞かなかったが、それでも現場の恐怖と惨状がわかり、アーテル兵が少し気の毒になったくらいだ。
市街地で同じことをすればどうなるか、想像したくもない。
「クロエーニィエ店長に新聞見せてもらってから、呪符屋さんに行ったら、フィアールカさんが居て、危ないから絶対、本土に渡っちゃダメだって言われました」
「そうでしょうね。魔獣がいつまでも同じ所に留まってるワケないんですから」
「えっ? じゃあ、大橋を渡ってこっちもヤバくなるとか?」
「それは大丈夫です」
薬師アウェッラーナは、恐怖と焦燥に顔を引き攣らせた青年に笑顔を向けて、落ち着かせる。
「北ヴィエートフィ大橋に強力な護りが掛かってたの、憶えてますよね?」
「え、えぇ、まぁ……」
あの日を思い出した顔に恐怖の色が濃くなる。
薬師として、患者を安心させる要領で微笑む。
「南の大橋も同じですから、大丈夫です」
「あ、そっか。……あ、本土の人たちがこっちに避難してぎゅうぎゅうになったりとか」
「それは……どうでしょうね」
キルクルス教徒の信仰に基づく心理的障壁が、どの程度のものかはわからない。
……個人差もあるし。
「冒険者カクタケア」シリーズを愛読する若者の中には、聖地巡礼と称してランテルナ島に小旅行する者も居ると聞いた。だが、あの小説に眉を顰めるアーテルの「良識ある人々」はどうだろう。
……って言うか、南ヴィエートフィ大橋が魔法で護られてるの、知ってる?
南北のヴィエートフィ大橋は、ネーニア島、ランテルナ島、チヌカルクル・ノチウ大陸本土のアーテル領を繋ぐ。
ネモラリス共和国では、ラクリマリス王国の魔法とアーテル共和国の科学、両方の技術の粋を集めて再建されたと報道された。その情報が、アーテル共和国ではどう扱われたか不明だ。
魔術の知識のある者なら一目でわかることだが、キルクルス教徒ばかりのアーテルでは、魔術の利用を伏せようと思えば伏せられる。
当時の湖南経済新聞のネモラリス版では、ラクリマリス王国の反応として「平和と融和の懸け橋が再建された」と報じられたが、アーテル側の反応は見なかった気がする。
十年くらい前の記事だが、一面トップ扱いで写真が大きく載り、アウェッラーナはやっと本当に平和になったのだと実感したのを昨日のことのように思い出した。
「魔獣の数や種類はわかりませんけど、女神様のお力で護られた橋の上は、アーテル領の中では一番安全な場所なんですよね」
「女神様の……? 通行人の魔力じゃないんですね?」
クルィーロが小さく首を傾げる。
「それじゃ全然、足りませんよ。再建当時の新聞には、基礎部分にラキュス湖の魔力を使う術が組込まれてるって載ってましたよ」
「へぇー……あ、それで、やるコトなくなっちゃったんで、薬の方、俺でもできるコトあったら手伝いますよ」
「えっと、じゃあ粉薬を量るのお願いしていいですか?」
一纏めに作って大皿に盛った粉薬を薬匙に取って実演する。
「薬匙の大きい方ですり切り一杯と小さい方ですり切り二杯、これが一回分なんで、薬包紙の真ん中にこんな感じで置いてもらって、包むのは私がします」
「それなら俺でも大丈夫そうです」
クルィーロが、肩の力が抜けた手で薬匙を受け取る。アウェッラーナは、包み終えた薬に製造日と薬品名を書いて、包む作業に掛かった。
何てことない単純作業だ。二人でやれば早い。
昼少し前に三百回分の熱冷ましを梱包まで済ませ、獅子屋に行った。
本日のオススメ定食を待つ間、ふと気になって聞いてみる。
「クルィーロさんたちって、予防接種……お済みですよね?」
「小学校で……多分、受けたと思うんですけど、風邪で休んだ時があって、それがインフルエンザか何か他のだったのか、例のアレの回だったか、憶えてないんですよね」
周囲を憚って「麻疹」の単語を出さない。
昼時が近付いて卓が埋まりつつある定食屋は、通信途絶と本土の混乱の話題で持ち切りだ。どこの誰の仕業か熱く語り合い、賭けを始める者まであるが、誰一人として、ワクチン不足の件を気に掛ける者は居ない。
「そうですか。私とセプテントリオー呪医は、職場で確実に受けて、抗体の確認も済んでるんですけど……他のみなさんは【明かし水鏡】でも使わないとわかんないんですね」
移動放送局プラエテルミッサの手許には、そんな高価な魔法の品はない。勿論、田舎の小さな村にもなかった。
警察、役所、裁判所、金融機関の本店や大きい支店にはあるが、こんな用件で使わせてもらえる筈がない。
……原料の在庫はとっくに使い切ったでしょうね。
ネミュス解放軍は、ミャータ市とその近郊の農村に医師団を派遣し、緊急ワクチン接種を行ったと言った。だが、未接種群の元々の人数が不明で、発症の危険性が高い人々にどの程度行き渡り、流行の鎮圧にどのくらい時間を要するか、誰にもわからないのだ。
患者を入院させて治療するにしても、戦争で医療者を取られた人手不足の中で、どの程度まで対応可能なのか。
ワクチン以外の医薬品はあれで足りるのか。派遣された医師団の報告書を読んでも、ミャータ市の今後の見通しはわからなかった。
考えれば考える程、不安が積み重なる。
「できることしかできないのよね」
溜め息と共にこぼれた独り言は、考える必要すらない当たり前のことだった。
☆インターネットが繋がらなくて、新聞も売り切れ……「1223.繋がらない日」~「1225.ラジオの情報」参照
☆アクイロー基地襲撃作戦……「459.基地襲撃開始」~「466.ゲリラの帰還」参照
☆北ヴィエートフィ大橋に強力な護りが掛かってた……「300.大橋の守備隊」参照
☆聖地巡礼と称してランテルナ島に小旅行……「795.謎の覆面作家」「846.その道を探す」参照
☆ラクリマリス王国の魔法とアーテル共和国の科学、両方の技術の粋を集めて再建された……「0118.ひとりぼっち」「0144.非番の一兵卒」「173.暮しを捨てる」「797.対岸を眺める」参照
☆ネミュス解放軍は、ミャータ市とその近郊の農村に医師団を派遣してワクチンの接種を急いだ……「1211.懸念を伝える」「1212.動揺を鎮める」参照




