1227.無知を知る時
黒板から煉瓦塀の図が消され、音楽の先生は澱みのない動きで、モーフには全く読めない文字を書いた。
魔力の制御符号「力ある言葉」だ。
少年兵モーフはあの空襲の日以来、魔法使いたちと行動を共にして、たくさんのことを見聞きした。
移動放送をするようになってから、買い与えられた教科書からも、たくさんのことを学んだ。
リストヴァー自治区に居た頃は、「悪しき業」だと教えられた魔法のことを勉強するなど夢にも思わなかった。だが、これは現実だ。
旅先での見聞。
教科書など本の知識。
湖の民と机を並べて共に学ぶ授業。
そのどれもが、自治区の外では当たり前のことなのだろう。
先生が黒板に書いたのは、教科書と同じ【道守り】の呪歌の歌詞だ。
湖の民の生徒はノートにすらすら書き写すが、力なき民のピナは、難しい顔で黒板を見詰め、ぎこちなく書いては動きを止める。
最近、呪医のセンセイが王都ラクリマリスで買ってきた初心者向けの魔法の本のお蔭で、たくさん読めるようになったが、書くのはまだ難しいらしい。
モーフは辛うじて、あの字が「力ある言葉」だとわかるが、日常で使う湖南語の文字より何倍も複雑な形を見ただけで、書き写す気力が萎えた。
……魔法使いって、あんな難しいのも読み書きしなきゃなんねぇのか。
モーフはつい最近、やっと湖南語の読み書きができるようになったばかりで、それもまだ覚束ず、ピナのように速くキレイに書くのは無理だ。
共通語は教会の貼り紙や聖典で見たことがあり、書き写すくらいなら何とかなるが、まだ全然読めなかった。
……外の奴らって湖南語と力ある言葉と共通語、コトバを三つも勉強してたなんてな。
薬師のねーちゃんと漁師の爺さん、葬儀屋のおっさん、呪医のセンセイ、アマナの兄貴、ラジオのおっちゃんとDJの兄貴も、魔法使いはみんな、モーフよりずっと勉強家で、たくさんのことを知っていて当然だと改めて気付かされた。
大人や何百年も生きた超年寄りの彼らが同い年だったとしても、モーフには勝ち目はないだろう。
力なき陸の民のモーフには、呪医たちのように何百年も勉強する時間はない。
それでも、違うコトバを読み書きできれば、今よりもっとたくさんのことがわかるようになるだろう。
書き終えた先生が、手に付いたチョークの粉を払って振り向いた。
「呪歌は旋律も術の重要な構成要素のひとつです。正確に発音するだけでなく、音程を外さずに謳って魔力を乗せなければ、発動しません。術によっては、呪文なしで楽器を奏でて魔力を乗せるだけでも、発動するものがあるくらいです」
「魔力があっても、音痴な人には使えないんですね」
カーラムが質問すると、スモークウァが肩を震わせた。ふたつに分けて括った緑髪が小刻みに揺れる。
「平たく言えばそう言うことですが、笑い事ではありませんよ。それでは【道守り】など、大勢で協力して行う大掛かりな術も手伝えないのですから」
「あ……!」
「そっか」
みんなはハッとして背筋を伸ばした。
「しっかり練習すれば、大抵の人は音程を外さず謳えるようになります。それでは、呪文の意味を見てゆきましょう」
モーフは黒板に書かれた【歌う鷦鷯】学派の呪歌【道守り】の呪文――力ある言葉の歌詞を見た。教科書には湖南語訳もあるが、言葉が難し過ぎて殆ど意味がわからない。
星巡り 道を示す 行く手照らす 光見よ
迷う者 皆 見上げよ
撓らう風の慫慂受け
翰鳥の眼 鵬程見晴らす
大逵の際涯目指す旅を祝う
この道に魔の影なし 行く手清める 光受け
弱き者 皆 守れよ
境に魔は消え 草枕
迫る獣を躱して道行く
大逵の際涯目指す旅を祝う
日輪追い 影を計り 四方の示す 方を見よ
弱き者 皆 抱けよ
陸行く足に祈誓う旅
樹雨避けて道に順う
大逵の際涯目指す旅を祝う
言に乗せ 道を清め 行く手守る 光仰げよ
この呪歌は、道に掛ける結界術だ。歌いながら通った道の穢れを祓い、魔物を寄せ付けなくする。
効果時間と強度は術者の魔力に依存し、共に謳う人数が多ければ多い程、強力になる。失効する前に定期的に掛け直して安全を図る。
魔物はこの道を通れなくなるので、術を掛けた道に囲まれた区画も安全になる。守りたい範囲が広ければその分、必要な魔力と発動に必要な人数も、比例して増える。
「この“翰鳥の眼 鵬程見晴らす”の部分は、鳥瞰図を眺めるように遠くの道までわかる……つまり“道に迷わない”という意味で、魔物などがよく使う堂々巡り系の幻術を無効化する効果があることを示します」
モーフは先生の解説を聞くだけで精一杯だが、隣に座るピナは、ノートに凄い速さでペンを走らせて熱心にメモする。
……チョウカンズ……聞いたことあるな……あ、鳥が空から見たみたいな地図のことか。
同時にファーキルに見せてもらったタブレット端末の地図を思い出した。あれは航空写真だと言われたような覚えがあるが、似たようなものだろう。
モーフがそんなところで引っ掛かる間にも授業は進む。
「普通の野生動物は、この結界内に侵入できます。“迫る獣を躱して道行く”の箇所がそうです。これは自力で何としなければなりません。戦えないなら、躱して逃げましょう」
それはモーフにも何となくわかった。
普通の生き物も通れないのでは、人間も通れなくなるだろう。家の泥棒避けならともかく、畑や村全体を囲むのにそれでは不便だ。
モーフ以外の六人は、頷きながら熱心にノートに書く。
「最後に“樹雨避けて道に順う”の部分ですが、これは道を外れると術の庇護を受けられないことを意味します。木から滴る雨を浴びるような場所を通ってはいけません……要するに“道を逸れるな”と言う禁止を表しています」
囲まれた外側では、魔物や魔獣がうろうろする。
……呪文って意外とフツーのコトしか言わねぇのな。
「次に実際の掛け方ですが、中心となる【歌う鷦鷯】学派の術者が、最初に四つ辻の中央で謳って、結界の起点を指定します」
近所のねーちゃんアミエーラの親戚の歌手も【歌う鷦鷯】学派だと言っていた。ねーちゃんは親戚から教わって、この術を使えるようになったかもしれない。
「この起点に杖などを立てて、地面から離さずに線を引いて歩きます。先程も言いましたが、言葉と魔力と旋律が、魔を退ける不可視の壁を築き上げます」
そこでチャイムが鳴った。
「もうひとつの【空の守り謳】は今度の時間に説明します。しっかり予習して下さい」
みんなはイイお返事をして音楽室を出た。
☆あの空襲の日……「0056.最終バスの客」参照
☆買い与えられた教科書……「1021.古本屋で調達」「1113.知の灯を識る」参照
☆呪医のセンセイが王都ラクリマリスで買ってきた初心者向けの魔法の本……「1113.知の灯を識る」参照
☆違うコトバを読み書き……「1127.何を伝えれば」「1128.情報発信開始」参照
※何百年も生きた超年寄り
葬儀屋のおっさん=アゴーニは五百年以上……「648.地図の読み方」参照
呪医のセンセイ=セプテントリオーは四百年以上……「240.呪医の思い出」「310.古い曲の記憶」参照
☆ファーキルに見せてもらったタブレット端末の地図……「317.淡く甘い期待」参照
☆ねーちゃんは親戚から教わって、この術を使えるようになった……手伝いはしたが、自力ではまだ無理「928.呪歌に加わる」「929.慕われた人物」参照
▼力ある言葉で書かれた魔法陣の例
「野茨の血族(https://ncode.syosetu.com/n7407ck/)」の「65.祭壇」参照




