1222.水底を流れる
魔装兵ルベルは、息を詰めてラズートチク少尉の指示を待つ。
ランテルナ島の空はよく晴れ、北極星を中心に無数の星々が天を埋め尽して瞬く。巨大な影が夜空を横切り、束の間、満点の星々が翳った。天の高みを行く魔物や魔獣は、地上など意に介さない。
「イグニカーンス市で張った【濃霧】はどうだ?」
「風が出なければ、夜明けまで継続します」
工兵ナヤーブリが背筋を伸ばして【花の耳】の声に応答する。
「イグニカーンス市の攻撃地点に戻り、西へ移動。先の【濃霧】と少し重なるように再度掛け、そこに魔哮砲を呼び寄せろ」
ラズートチク少尉から幾つか細かい指示を与えられ、魔装兵ルベルと工兵ナヤーブリは再びイグニカーンス市へ跳んだ。
気象予報士の工兵が掛けた【濃霧】の幕が夜の岸辺を包み、【魔除け】の薄明りが照らす白い闇の中では、伸ばした手の先も見えない。
二人は音と足下に気を配り、西への移動を開始した。
半世紀の内乱後、放置された港の廃墟は雑妖だらけだ。濃い霧に溶け混じる穢れた存在の濃淡が、足下の瓦礫や亀裂の位置を浮かび上がらせる。
作業服に擬装した【鎧】は、街灯など他の光源のある場所ならそうでもないが、完全な闇の中では、着用するだけで発動する【魔除け】の術が、淡い光を放って目立つことこの上ない。
ラニスタ共和国領で、狙撃の的になった理由はわかった。
……単に下手で外したのか、それとも警告射撃か。どっちだ?
かなり離れた位置で見えた小さな光は、銃口が火を噴いた時のものだろう。ライフルだと思うが、確認はできない。
キルクルス教国は力なき民ばかりだ。
常識的に考えて、夜間に人里離れた湖畔へ出掛ける者が居る筈がない。
確か、ラニスタ共和国にも少数ながら力ある民も居住し、星の標によるテロに晒される。ラジオのニュースで度々魔法使いへの襲撃事件を耳にした。
……ラニスタ軍の特殊部隊か?
気持ちが落ち着くに従い、思考が回り始めたが、想像の域を出ない。
ラズートチク少尉らは現在、アーテル軍の目をルベルたちから逸らす為、再びイグニカーンス基地を襲撃する最中だ。
……明日以降の作戦に支障が出たら……いや、今は魔哮砲だ。
二人は息を殺し、爪先で足場を確認しながら濃密な夜霧の中を行く。
魔哮砲は、アーテル共和国と世界を結ぶ湖底ケーブルを全て切断してくれた。
夜は魔の領分だ。
ケーブルの保守会社が異常に気付いても、すぐには動けない。
切断箇所はいずれも湖上封鎖の範囲内だ。修理に着手する前にラクリマリス政府へ申請を出し、王家の使い魔の襲撃を避ける許可証を交付してもらわなければならないだろう。
魔哮砲戦争が始まり、湖上封鎖が実施されて一年以上が経過した。
定期メンテナンスの為、既に交付された可能性に気付いたが、ラズートチク少尉も流石にこの短期間では、そこまで調査できなかった。
保守船による湖上での工事期間は、平均で十日から二週間程度だと言う。
完了直前を見計らって別の個所を切断すれば、工期を伸ばせるが、ラクリマリス政府の出方次第だ。
最悪の場合、王族が交代で起きて夜間も湖の魔物を使役し、警戒に当たるかもしれない。
アーテル共和国の為ではない。
第三国にある保守会社や、ケーブルを保有する巨大企業の依頼にどこまで対応するか、ルベルには全く読めなかった。
ラクリマリス王国もインターネットの回線を使用する以上、湖底ケーブルを保有する各社との関係は良好に保ちたいだろう。だが、両隣の国が戦争中で、挟まれた王国は中立を保つ。どちらか一方に肩入れする動きは、避ける可能性もある。
全ては国王次第だが、議会の説得によって判断を変えるかも知れず、予断を許さない。
「ここでもう一度掛けます」
「了解」
工兵ナヤーブリが囁いて【濃霧】の呪文を唱えた。【魔除け】の淡い光を受けた白い闇が密度を増す。
二人は更に一時間ばかり進んだ地点で足を止めた。
魔哮砲は、湖底で先程と同じ場所に留まる。蟹がルベルの使い魔の前を横歩きするが、全く興味を示さない。
「湖の底を西へ進み、俺の所へ来い」
女神の涙ラキュス湖に沈んだ闇が動き、使い魔の見る景色が流れる。この速度なら、夜明け頃には回収できそうだ。
使い魔を呼び寄せる魔装兵の背を工兵ナヤーブリが守る。自分より弱い者に守られるのは妙な感じだが、今のルベルはそれ程迄に無防備だった。
ルベル自身の視界は淡い光を受けた白一色。手を伸ばしてみたが、肘から先すら見えない深い霧だ。
これなら、アーテル軍にはどうにもできないだろう。
魔哮砲の視界では、湖底の風景が飛ぶように流れた。
水草の林を抜けて魚群を驚かせたが、彼らの逃げる先を確認する暇もなく岩を乗り越え、巻貝がびっしりくっついた爆撃機の翼を走る。
主と使い魔、両者の視界と音の情報が頭の中で併存する。
常時見るのは疲れる為、普段は使い魔の知覚情報を遮断するが、今は目を離せない。ラキュス湖には、王家の使い魔以外の魔物も多数、棲息するのだ。
工兵マールトが作った【魔除け】のお陰で、霧の東から薄日が射す頃まで魔物の襲撃を受けずに済んだ。
……このまま逃げ切ってくれよ。
湖底はまだ、朝の光が届かない。
風が動き、霧が流れた。
魔哮砲の行く手で砂が揺らぐ。魚などの姿はないが、僅かに砂煙が上がり、闇の塊の脇を流れる。魔哮砲は一瞬も止まらず、湖底を流れるように移動する。
砂煙が闇に沿って流れた。
……何で後ろじゃなくて横に?
間もなく【濃霧】が失効する。風が強まれば、ここでも使えなくなるだろう。魔哮砲を止める訳には行かない。
水底にも光が射し始めた。砂煙に何かがうっすら重なって視える。ルベルは心臓を鷲掴みにされた心地がした。
「南に進んで、岸壁を這い上がって俺の所へ来い」
魔哮砲が直角に曲がると、砂煙もついてきた。
闇の塊が、内乱の痕跡を留めるコンクリ塊を這い上がる。ねっとり絡みつくような視線を感じたが、気のせいであって欲しい。ルベルは女神に祈るしかない。
魔哮砲が水面に出た。薄れた霧の中をルベル目指して直進する。
ルベルはウェストポーチから【従魔の檻】を取り出し、走りながら小瓶に掛けられた術を発動させた。
「入れ、人の手に成る懐生」
使い魔の無事を喜ぶ暇もなく、茶色の小瓶に闇が吸い込まれた。




