1219.白色の闇作戦
工兵ナヤーブリが最初の目標地点に移動する。
灯を落とした雑居ビルから、次々と人が吐き出されて歩道が埋まる。
仕事帰りの勤め人を装い、湖岸より二本内陸の道をゆっくり歩いた。
秋の日は早い。
既に薄暗さを増した道には影が見えず、家路を急ぐ人の群はタブレット端末を見ながら足早に行き交う。
黄昏色に染まる街が、薄紙一枚隔てたように遠くなる。その白が次第に濃度を増し、通行人が画面から顔上げて辺りを見回す。
街灯が点った。
足を止めて辺りを見回す者、忙しなく端末をつつく者、ガードレールに手を触れて先へ進む者。
視覚を拡大する【索敵】の術と通信の魔道具【花の耳】で、ランテルナ島の朽ちた漁港からでも、首都ルフス西部の焦りと動揺が手に取るように伝わる。
夕暮れの霧は瞬きの度に密度を上げ、人々は伸ばした手の先さえわからぬ白い闇に閉じ込められた。
魔装兵ルベルの【索敵】の目には、工兵ナヤーブリの姿がはっきり捉えられる。彼がポケットの中で【魔力の水晶】を握り、【濃霧】の術を使ったのだ。
大通りを離れ、雑居ビルの隙間を抜けて緩衝地帯に出た。
締め固められた土の上に影を作る障害物はひとつもない。
帯状の空白地帯はラキュス湖畔と街を隔て、魔物や魔獣の通報や目撃情報があれば、アーテル軍の対魔獣特殊作戦群の戦場になる。
ビル群に沿って街灯が等間隔に並ぶ。一基ずつ監視カメラが設置されるが、乳白色の闇に包まれた今は機能しない。
ルベルは合流地点に【跳躍】した。
現場で改めて確認する。
予め地図と【索敵】で確認した目標物が白く塗り潰され、十キロ四方が霧の中だとわかった。
遠くでサイレンの音が長く尾を引く。
……そっか。急に霧が出たら、事故も起きるよな。
「黄金の雨の檻より現れ出でよ、人の手に成る懐生」
生じ掛けた罪悪感を振り払い、ウェストポーチから【従魔の檻】を出す。魔法の小瓶に設定された合言葉を唱えると、ルベルの手の中で砕け、黒い塊が流れ出た。ナヤーブリが【操水】で湖水を汲み上げ、破片をひとつ残らず回収する。
緩衝地帯には雑妖の姿がない。
「俺がもういい離せと命令するまで、これを持ち続けよ」
ルベルが力ある言葉で命じ、先程ラズートチク少尉から受取った湖上封鎖範囲内での活動許可証を魔哮砲に渡した。【魔除け】の護符と同じ仕草で受け取った魔哮砲を撫でてやり、ラキュス湖に送り出す。
「水底に降りて、ここから真っ直ぐ北へ進め」
不定形の闇の塊は何の疑問もなく湖水に身を浸し、あっという間に沈んだ。
ルベルが使い魔との視覚情報共有を開始する。
相変わらず、どの部分が目に相当するか不明だが、【魔除け】の護符に照らされた進行方向の視覚情報が伝わった。魔哮砲自身は暗い場所でも、ある程度は目が利くらしい。
術の【索敵】と【暗視】は併用できず、藻が生い茂る岸壁を滑り降りる姿があっという間に見えなくなる。ルベルは【索敵】の術を解除し、魔哮砲から送られる視覚情報に意識を集中した。
濃霧に包まれた緩衝地帯には、アーテルの作業員に擬装した魔装兵ルベルと工兵ナヤーブリの他、人の気配はない。
湖底に着いた魔哮砲がゆるゆる北へ進む。
前方の小魚の群が黒い塊に驚き、左右に分かれて逃げた。
半世紀の内乱までは港だったらしいが、破壊された岸壁には藻が生い茂り、乗用車や戦闘機などの残骸があちこちに沈んで見る影もない。
半ば朽ちた車の内部は、陸上なら雑妖がぎっしり詰まる場所だが、ラキュス湖の底は女神のご加護によってそんなモノがそもそも居ない。
魔哮砲が岩に這い上がる。
「そこで止まれ」
陸地から発した命令が【花の耳】越しに水底まで伝わり、魔哮砲はすぐに動きを止めた。
数メートル先の砂地に湖底ケーブルが横たわる。ここしばらく、拠点の廃ビルや空家などから角度を変え、【索敵】で何度も位置を確認したものだ。
少し先に中継器も見える。
ラズートチク少尉が入手した保守業者用の湖底ケーブル敷設地図によると、クラウド事業者の所有で、湖東地方とアーテルのデータセンターを繋ぐものらしい。
もう少し北には、大手通信会社が敷設したケーブルもある。
こちらは、遙か南の外洋を走る海底ケーブルにも接続し、世界と繋がる主要回線だ。ステニア共和国とアミトスチグマ王国の国境付近で揚陸する。険しい山脈を迂回する為、ポゴニア王国、ポリキクニス王国など複数の国を経由し、内陸部をリンフ山脈の東に位置するカルサール湾へ抜ける。
湖東地方からカルサール湾へ抜ける経路もあり、湖底ケーブルの西端にあるアーテル側の揚陸地点はイグニカーンス市だ。
「力を細く絞って、その機械だけを壊せ」
使い魔と共有する視界で中継器に意識を集中し、岩の上に待機させた魔哮砲に命じる。
闇の塊の一部が細長く伸び、吹き矢の筒のように変形した。一瞬、何かが光り、少し上の層に居た魚群が蜘蛛の子を散らすように逃げる。
湖底の砂が僅かに舞い上がっただけで、ラキュス湖に大きな変化はない。ただ、中継器だけが粉砕された。
一仕事終えた魔哮砲の身が弛緩し、元の不定形の闇に戻った。
☆【花の耳】……「0136.守備隊の兵士」参照
☆【魔除け】の護符と同じ仕草で受け取った……「1218.通信網の破壊」参照




