0125.パンを仕込む
久し振りに寛げた。
……あんな顔で笑うのね。かわいい。
薬師アウェッラーナは、エランティスとアマナの笑顔に気付き、少し安心した。二人が表情を失い、恐怖と緊張で顔を強張らせる姿しか知らなかった。
二人とも、まだ十歳くらいなのに何もかもを失った。
兄姉やよく知る人が一緒とは言え、心に大きな傷を負った筈だ。
星の道義勇軍の三人も、屈託のない笑顔でゆったり寛ぐ。
この姿は、街を焼き、大勢の人を殺めたテロリストには見えない。
アウェッラーナ自身、目の前で父を殺された。直接手を下したテロリストは、病室に居合わせた避難民の反撃で死亡した。
この三人は、あの男たちの同類だ。
憎い筈なのに、何故か一緒にいることに嫌悪感が湧かない。同じ食卓を囲み、寛いでさえいる。
彼ら自身は、この状態をどう思うのか。
……そんなコト聞いたって仕方ないし。
余計なことを言って、この平和なひとときを壊したくなかった。
受付カウンターでは、パン屋の青年レノが、ビニール袋に小麦粉、塩、水、スティックシュガー、ドライイーストを入れて捏ねている。
星の道義勇軍の少年兵モーフは、その様子を興味津々で眺めた。
「何してんだ?」
「今の内に仕込んどけば、明日の朝、パンが食べられるんだ」
「パン……堅パンか?」
「いや、やわらかいパンだよ。今の時期は三、四日は日持ちするな」
「パンがやわらかいのか?」
「そうだよ。普段食べるのはこっちで、俺はパンを作る仕事をしてたんだ」
「……ふーん」
モーフはそれ以上言わず、パン屋のレノが生地を捏ねる手元を見詰めた。
日が傾き、瓦礫の隙間や車の残骸から雑妖が滲み出して来る。
影伝いにそろりそろりと這い、通りにじわじわ広がって行く。通りの影に沿って這い、別の建物や車に入る。
放送局の玄関は、扉が外れて開け放しだ。
雑妖はここにも来た。泥のように形を成さないモノたちが敷居に達する。見えない壁に当たり、弾かれた。ざわざわと波立ち、離れて行く。
ここは建物に掛けられた【巣懸ける懸巣】学派の【結界】に守られる。
アウェッラーナたちは、雑妖の動きを無言で見守り、遠ざかるまで見届けた。
日が沈み、辺りがすっかり暗くなる。
雑妖が、我が物顔で活き活きと蠢き始めた。
アウェッラーナとクルィーロが点した【灯】で、ここだけが明るい。
窓が無事な部屋と階段室前の戸も閉め、術で【鍵】を掛けた。こうしておけば、見張る場所は正面口だけで済む。
トイレの窓には鉄格子が嵌る。これを突破できる人間に侵入されたら、相当な覚悟が必要になるだろう。
【灯】はボールペン三本に掛け、事務机の下に置いた。
夜間に出歩くのは雑妖と魔物、それらをものともしない人間だ。
「この状況で、照明に惹かれて来るのはロクな物ではない。【灯】はなるべく外から見えないように使うんだ」
寝る前に、ソルニャーク隊長が注意を与える。
トイレ用に男女一本ずつと、玄関ホール用の予備で合計三本だ。
下水も使えないだろう。
トイレでは使用済みの紙を流さず、個室内に置いたゴミ袋に捨てる。小はそのまま、大のみ、水洗タンクに水を足して流すことになった。
「あ、あの……今夜の見張り、私にもさせて下さい」
薬師アウェッラーナが言うと、メドヴェージが驚いた顔で気遣う。
「魔法使いの姐ちゃん、寝てなくて大丈夫なのか?」
「大丈夫です。さっき休ませていただきましたから。それに……」
「それに?」
「レノさんたちが見た黒いのが何なのか、確めたくて」
思い切って言うと、場が静まり返った。
やや間があって、ソルニャーク隊長が口を開いた。
「あれが運河を渡った、と?」
「いえっ、そう言う訳じゃないんですけど、もし、また……同じ種類の魔物が出たら、正体を確めておきたいと思っただけです」
「同種の魔物……何か、心当たりが?」
「いえ、特に詳しい訳じゃないんですけど、直接見れば、何かわかるかも……と思って……」
ただの好奇心ではなかった。
どう言う性質のモノかわかれば、対応の仕方が分かるかもしれない。
魔物には、「跳び縞」のように草食で、人間や動物は襲わないモノも存在する。【飛翔する蜂角鷹】学派には、魔物の性質や能力を調べられる術があると聞いたことはあるが、アウェッラーナは、その学派の呪文を知らなかった。
……図書館……【耐火】で残ってないかな?
「いいんじゃありませんか? 本人が大丈夫だって言ってるんだし」
クルィーロの一言で、薬師アウェッラーナは中学生のピナティフィダに代わって見張りに立つことになった。
クルィーロとアマナ、レノとエランティス、ピナティフィダとアウェッラーナが長椅子で眠り、ソルニャーク隊長と少年兵モーフは、床に敷いた布団で休む。
最初の見張りには、メドヴェージとロークが立った。
☆目の前で父を殺された……「0011.街の被害状況」参照
☆直接手を下したテロリストは、病室に居合わせた避難民の反撃で死亡……「0012.真名での遺言」参照
☆憎い筈なのに、何故か一緒にいることに嫌悪感が湧かない……「0079.仲間たり得る」「0086.名前も知らぬ」参照
☆俺はパンを作る仕事……「0021.パン屋の息子」参照
☆跳び縞……「野茨の環シリーズ 設定資料」の「用語解説02.魔物」、「飛翔する燕(N7641CZ)」の「01.カボチャ畑」参照




