1206.東からの訪問
何とも言えない気持ちで土曜の朝を迎えた。
あまり寝付けなかったレノは、欠伸を噛み殺してパンを焼く。
寝る前に仕込んだ生地はいつも通りの仕上がりで、香ばしい匂いにホッとした。
パン焼き窯ではなく、フライパンとアルミホイルで作るのにすっかり慣れてしまった。膨らんだパンに押し上げられたホイルと一緒に不安も膨れ上がる。
……普通の焼き方、忘れてないだろうな?
片手に【魔力の水晶】を握って唱える【炉】の呪文にもすっかり慣れた。だが、この術は【水晶】への魔力の補充や、効果範囲を指定する円の準備で、魔法使いの手が必要だ。力なき民のレノ一人ではできず、使う度に却って無力感が募った。
……いつまでこんな生活が続くんだろう。
朝食後、レノはトラックの荷台を降りて村の門を見た。
ここは農家ばかりで、今の時期は忙しく、夜明けと同時に畑へ出る。
村に残るのは、まだ働けない幼い子供、もう働けない老人、寝込んだ病人、彼らの世話と家事を担う者たちだ。
四眼狼の群と戦った自警団と双頭狼の尾に咬まれたコルチャークは、傷はすっかり治してもらえたが、体力は自然回復を待つしかなく、自宅で病床に伏せる。
快方に向かう者ばかりで、村の空気は前とは比べ物にならないくらい明るい。
……麻疹の件、冷静に聞いてもらえるかな?
患者が居ない今なら、家ごと燃やされる心配はないだろうが、限りなく不安だ。
一度、ティスがよく遊びに行く家へ挨拶に行ったが、【防火】や【耐火】の術が施されたのは台所だけで、他は【魔除け】と【結界】だけだった。
術をたくさん組込めば、【巣懸ける懸巣】学派の術者への支払いが嵩む。
不足するのは費用だけではない。
それらの術を維持する魔力も比例して増え、人数が少ない家庭や魔力が弱い一族では、家屋に組込まれた術を強いものから順に失効させてしまう。
荷台の呪符で見慣れた呪文と呪印がない家は、何となく落ち着かない気分にさせられた。
……アウェッラーナさん、色んな薬をあんなにたくさん作るのって、特効薬がないからって言ってたな。
呪医セプテントリオーは、ワクチンが有効だが、発症すれば対症療法しかないと言う。
レノは予防接種の記憶を手繰った。
三人とも水疱瘡には罹ったが、麻疹になった憶えはない。
年の離れたティスが予防注射を受けた日、家へ帰っても泣き止まなくて両親を困らせたのは思い出したが、何の注射だったかまでは思い出せなかった。
年の近いピナとレノ自身、幼い頃にどんな予防接種を受けたか全く記憶にない。
……呪医かアウェッラーナさんに聞けば、わかるかな?
注射や点滴は、科学の医師免許を持つ者に限られるが、病院勤めの二人は、同僚から聞いてレノより詳しいだろう。
保健体育の教科書で見た写真が脳裡を過った。
……確か、高熱が出て赤いブツブツができるんだよな?
風に乗って微かにエンジン音が聞こえた気がした。
レノが村の広場まで出たところで、村を守る低い石垣の向こうに幌付きの軽トラックが一台、東から来るのが見えた。
開け放たれた門の前で停車する。
「じゃ、行ってきな」
「ありがとう。ガソリン代、後できっと払うから」
運転席と荷台の短い遣り取りに続いて、幌の中からマスクをした中年男性がふらふら出て来た。艶をなくした髪はくすんだ薄緑で、かなり具合が悪そうだ。続いて中年女性が荷台から飛び降り、足下が覚束ない彼を支える。
「あんた、しっかりして。もうすぐお医者さんに治してもらえるからね」
男性は何か言いかけたが、激しく咳込んで言葉にならない。
咳が落ち着くと、洟を盛大に啜り上げた。片手でマスクをずらし、鼻を出して荒い息を吐く。
「すみませーん、ここにお医者さんが居るって聞いて来たんですけどー」
緑髪の中年女性が声を張り上げる。
門から一番近い井戸で、おかみさんたちが【操水】で汲み上げた分を戻して答えた。
「お医者さんったって【青き片翼】ですから、怪我しか治してもらえませんよ」
「お礼はたんと持って来ましたから、そこを何とか」
「何とかったって、無茶言うもんじゃありませんよ」
彼らは初めての訪問者だ。
門に掛けられた【一方通行】の術に阻まれ、中の者に呼ばれない限り入れない。
焦りと苛立ちを抑えたもどかしげな声が哀願する。
「でも、【見診】くらい使えますよね? 何の病気かわかれば、ウチの置き薬で何とかなるかもしれないんで、診るだけでも診ていただきたいんです」
男性は咳が酷く、発声もままならない。
代わりに女性が窮状を訴えた。
「ウチはミャータの方が近いんですけど、あっちの方は交通規制で行けないし、癒し手の神官は何カ月も前からトポリに呼ばれて留守だって聞いて、思い切ってこっちに来たんです」
「お気の毒だとは思いますけど……」
「ねぇ、店長さん、呪医っていつ戻られます?」
赤子を背負った若い母親が、広場で様子を窺うレノに気付いた。
「えっと、今日の朝イチって聞いてたんですけど、何か遅れて……俺も待ってるんです。もしかしたら向こうで何かあって、今日中に戻れなくなったのかもしれませんね」
「そんな……折角ここまで来て……」
門前の二人が肩を落とすと、軽トラの運転席から声が掛かった。
「あー、お邪魔しました。じゃ、カーメンシクの病院へ行きますんで」
「いいの?」
付添いの女性が、驚きと喜びに目を見開いて振り向く。
「乗り掛かった船だ。さ、乗ンな」
病人を乗せた軽トラが西へ去ると、何とも言えない後味の悪さが残った。




