1202.無防備な大人
ロークは、文庫本を巻数順に並べ直し、九冊ずつ三つの山を作った。
全二十七冊。
こちらとアミトスチグマで手分けし、ピナティフィダたちのメモがあったとは言え、よくこの短期間で調べ終えられたと思う。
持ち帰り用の布袋は二枚だ。十三冊と十四冊に分けて詰めると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
……麻疹の患者を家ごと燃やすなんて。
感染力は強いが、ワクチン接種を受けた者ならほぼ心配ない。
医療者は減ったが、国内から一人も居なくなった訳ではない。
平和な頃なら、麻疹は科学でも魔法でも助けられた伝染病だ。
魔哮砲戦争の開戦から一年半。バルバツム連邦の工場が壊れるまで、ネモラリス島内では予防接種が継続した筈だ。
何故、こんなにも人心が荒れるのか。
王都第二神殿の書庫は静かで、ロークたち以外の話し声は聞こえない。
クリューチ神官が、キルクルス教の聖典を奥へ片付け終え、貸出カウンターに戻った。
クラウストラが囁き声で聞く。
「呪医、ネモラリスの予防接種体制ってどうなってました?」
呪医セプテントリオーは、椅子に腰を下ろし、場違いな本が片付けられた机に肘を突いて目を閉じた。
しばらくそうして、目を開けると、小さな声ですらすら答える。
「……半世紀の内乱中は、どこも戦闘が激しくなってからは接種が行われなくなりました。独立後、最初の一年間は世界保健機関などからワクチンの無償提供があり、七歳未満の子供と医療者に対して強制接種されました」
「ラキュス湖周辺地域での流行を抑える為でした」
クリューチ神官も当時を知るらしい。
少女の姿をしたクラウストラが重ねて聞く。
「じゃあ、次の年からはどうでした?」
「独立したネモラリス政府は、未就学児を対象に無償接種を継続。学童は学校で希望者に集団接種が……確か、半額助成で行われました。十年くらい前からは学童も無償化され、同時に一歳から三歳までの接種が法律で義務付けられました」
「大人は?」
「医療者以外は有償で、希望者のみです」
黒髪の少女の問いに答える呪医の顔色がどんどん悪くなる。
「あの……麻疹って確か、最悪、死んじゃったりとかって……」
ロークの声は、思ってもみなかった程に震え、語尾が消えてしまった。
呪医セプテントリオーが力なく俯く。
「麻疹そのものによる致死率は、ネモラリスを含む魔法文明圏ではそれ程でもありませんが、免疫力の低下による合併症が致死率を押し上げるのです」
「合併症って?」
クラウストラの声は落ち着いて、まるで他人事だ。
長命人種の呪医は俯いたまま答える。
「色々ありますが、肺炎が多いですね。解熱して発疹が消えた後も、免疫力の回復にはしばらく掛かりますので、油断できません」
「マスクとかで防げないんですか?」
「何もしないよりはマシですが……インフルエンザよりもずっと感染力が強いので、ワクチン以外に有効な予防策はありません」
聞けば聞く程、不安な話しか出てこない。
テロと戦争とクーデターで医療者と医薬品が不足し、偶発的な事故でワクチンの輸入量も激減した。ミャータ市近郊の村が、恐慌を来して放火に走ったのは、当然の成り行きに思えた。
平時なら、何てことない一過性の感染症だったものが、罹患すれば、どれだけの死者を出すとも知れない恐ろしい伝染病になってしまったのだ。
ウィルス自体が変異したワケではない。
危険性を上げたのは人間社会の変化だ。
「戦争さえなければ、こんなことには……」
呪医セプテントリオーが膝の上で拳を握る。
「治るって安心感があれば、家に火を放ったりなんかしなかったでしょうにね」
「安心感か……」
彼女はそう言うが、今、一番欲しくて、一番手に入らないもののひとつだ。
平和。
安心。
安全。
こんなにも遠い存在になるなどと、ほんの二年前には夢にも思わなかった。
「ミャータ市当局は、何をしているのですか? 近隣の村への医療者の派遣、交通規制、封じ込めの為にできる手段は色々ありますよね?」
クリューチ神官が貸出カウンター越しに質問を寄越した。
閉架の窓口を訪れる者は他にない。
「何せ、流行地ですから。その情報を取りに行くこともできないのです」
答えたソルニャーク隊長も悔しそうだ。
クラウストラがタブレット端末をつついて言う。
「ネミュス解放軍がお医者さんとワクチン、届けたんですよね? 偉い人とか報告受けてたりしません?」
言いながら隊長に向けられた画面には〈自治区の接種状況は?〉とテキストが並ぶ。ソルニャーク隊長は、難しい顔で応じた。
「その方面の情報収集は、レーフさんとクルィーロ君の担当です。後で彼らに確認しましょう」
「お願いしまーす」
「ワクチンですが……私が生まれ育った村には病院がなかったので、恐らく、何もしなかったのではないかと思います。移住時点では中学生だったので対象外。若い世代については、国会議員が正確に把握していると思います」
「じゃあ、ファーキル君に聞いてもらいますね」
ロークは早速、端末をつつき〈ラクエウス議員に自治区の麻疹ワクチン接種状況について聞いて下さい〉とメールを打つ。
……ちょっと待って。それって隊長さんもヤバいってコトだよな?
送信ボタンを押した直後に気付いて顔を上げる。
麻疹に対して無防備だと明かしたソルニャーク隊長は、平静を保ってクリューチ神官と向き合った。
「途中で恐れ入りますが、もう、本を持ち帰ってよろしいですか?」
「勿論です。あなた方の持ち物ですし、まさかここに寄贈していただく訳には参りませんから」
湖の民の神官は笑って私物のタブレット端末を取り出した。




