1199.大流行の小説
クフシーンカは菓子屋の夫婦を自宅に呼び、重い段ボール箱をリストヴァー大学に運んでもらった。
三つの箱は無地で、内容物の表示はない。
店名のロゴ入りワゴンが学生集会室の前に停まると、いつも壁新聞を手伝ってくれる学生たちが出て来た。
「重いッスね」
「何スかこれ」
運んでくれた男子学生たちが袖で汗を拭って聞く。クフシーンカは集会室の扉を閉め、枯れ枝のような指を乾いた唇に当てて囁いた。
「アーテルで大流行の小説よ」
「小説?」
学生たちに疑問と囁きが広がる。
「若いコに大人気なんですって。ちょっと不道徳な場面があって、大人や聖職者は眉を顰めるお話なのだそうだけれど、今はまだ、発禁指定されていないそうよ」
「あぁ、司祭様たちに内緒なんスね」
男子学生の一人が何やらわかった顔で頷き、他の者たちもうっすらニヤける。
女子学生は苦笑するだけで何も言わなかった。
「大学と高校、七カ所に置きたいのよ」
「何冊あるんスか」
「まだ続くそうだけれど、最新の二十七巻までの一揃いが九組だそうよ」
「そんなに?」
学生たちが目を丸くする。
あの日、緑髪の運び屋は三組届けると言ったが、三倍も持って来た。文庫本とは言え大変な重さだが、魔法の袋で運んだ彼女は平気な顔で置いて行った。
ワゴン車に積み込んだ菓子屋の夫婦が、腰をさすって顔を見合わせる。
このリストヴァー大学、農村地帯の西高校、団地地区の中央高校と商業高校、旧バラック街の東高校と工業高校、高等専門学校、計七カ所に一組ずつ置いても二組余る。
中学にも置くか、どこか他にすべきか悩ましい。
「これも、この間の絵本とかと一緒に来たんですね」
大工の娘が段ボール箱を撫でる。クフシーンカが曖昧な笑みで応えると、別の女子学生が箱に手を置いた。
「開けてみていいですか?」
「どうやって分ければいいかな?」
「借りパクする奴、絶対居るだろうな」
肌荒れした手がガムテープを丁寧に剥がすと、真新しい本独特の匂いが漂った。久し振りに嗅ぐインクの匂いに懐かしさがこみ上げる。
学生たちの手が一巻ずつ長机に並べた。
「冒険者カクタケア」
誰かがシリーズの題名を読み上げた。
「お話の筋は架空だけれど、舞台になった街や何かは、アーテルに実在する場所ばかりだそうよ」
「じゃあ、アーテルの旅行案内としても読めるんですね」
クフシーンカが、緑髪の運び屋から聞いた説明を思い出して付け加えると、菓子屋の妻がうっとり呟いた。若者たちも瞳を輝かせる。
「そうね。今はどうかわからないけれど、魔哮砲戦争が始まる前は実際、小説に登場した場所を巡る旅行も流行っていたそうよ」
「アーテルには空襲ないし、今もやってるんじゃないんですか?」
「いや、でも、ネモラリス憂撃隊がテロやってるらしいし」
「人が集まるとこ行くのヤバいかな?」
学生たちはまだ見ぬアーテルの地に思いを馳せ、他愛ないお喋りを始めた。
「これって女子は借り難いよねー」
「あー……」
女子大生たちが苦笑する。
表紙に描かれた少女は、ただでさえ大きい胸を更に強調する衣裳に身を包む。露出度が高く、胸の谷間部分には布がなかった。
「中坊には刺激が強過ぎるよな」
「フェレトルム司祭じゃなくても怒るわー」
「ふしだらな! 理性を何と心得るのですか! ……って」
「あっちは、よい子のみんなに見せらんない本が流行ってんのか」
「アーテルはキルクルス教国として独立したのにどうしてこうなった?」
そんなことを言う男子学生たちの口はニヤニヤが止まらない。
クフシーンカは女子学生と視線を合わせ、苦笑するしかなかった。
「いや、でも、ホントこれ家で読んでんのみつかったら、親に怒られそうだな」
「古着解いてブックカバー作った方がいいかもね」
「全部同じ厚さ?」
「巻によって全然違うねー」
学生たちは次々と問題点をみつけ、仕事の計画を立てて役割分担を割り振る。
「取敢えず、大学と高校、高専の図書館に一組ずつ。残り二組をどこに置くかは、様子見て決めませんか?」
大工の娘の提案に異論は出なかった。
代わりに男子学生が懸念を口にする。
「一箇所に置いて火事に遭ったり、盗まれたりするとアレなんで、店長さんたち、一組ずつ預かってもらえませんか?」
断る理由はなく、クフシーンカと菓子屋の夫婦は古着から作った手提げ袋に詰めて持ち帰った。
自宅に戻ったクフシーンカは、二十七冊もの文庫本を寝室に運んでもらった。
僅かな着替えや身の回りの品は、全てひとつの部屋に集めてある。ベッドと木箱が幾つかあるだけの部屋に新しい本の匂いが満ちた。
台所へ移り、中庭で摘んだ香草のお茶で菓子屋の夫婦を労う。
菓子屋の亭主が爽やかな香りを胸いっぱいに吸い込んで、言葉を吐き出した。
「あれ読んで、アーテルに行ってみたいなんて言う奴が出なきゃいいんだが」
「どうしてそんな悪いコトみたいに言うのよッ!」
妻が金切声を上げる。
「だってお前、地続きみたいなモンだぞ? 危ないじゃないか」
再整備された山中のクブルム街道を抜け、ザカート隧道を潜り、ラクリマリス領を通過して北ヴィエートフィ大橋を渡れば、アーテル領ランテルナ島だ。
頑張れば徒歩でも行けそうな気もするが、道中の魔物や魔獣、水と食糧など、危険と困難は計り知れない。
「平和になって、飛行機の直行便ができれば安全に行けるじゃないの」
「お前、そんな簡単に言うなよ」
亭主が妻の夢に苦笑する。
「でも、それを目標に頑張るコが増えたらステキね」
クフシーンカが言うと、菓子屋の夫婦は複雑な微笑で頷いた。




