0118.ひとりぼっち
今のアミエーラには、夜の冷え込みは気にならなかった。
いつの間にか、広場が雑妖の群に囲まれる。
木々の輪郭は、星明かりにぼんやり見えるだけだが、雑妖の姿ははっきりと視えた。闇に溶け込み、混じり合い、滲み出す。
恐ろしさに声も出せない。
無数の目がこちらをじっと窺うが、近付きはしない。
どうやら、広場や道の【魔除け】の効力らしい。
落ち葉の積もった広場には、アミエーラの他、何者も居ない。
こんな場所で落ち着いて眠れる筈がないが、眠らなければ、動けなくなってしまう。コートをしっかり巻きつけ、マフラーで首と口許を覆い、リュックを枕にして横になる。
疲れが勝ったのか、アミエーラはいつしか、うとうとし始めた。
ちょっとした物音で目が覚め、熟睡できない。
何度目かにはすっかり目が冴え、星々に祈りながら夜明けを待った。
小さく声に出し、湖南語で祈りの詞を唱える。
「日月星、蒼穹巡り、虚ろなる闇の澱みも遍く照らす。
日月星、生けるもの皆、天仰ぎ、現世の理、汝を守る」
アルトン・ガザ大陸で生まれた教えなので、本来は、聖句をアルトン・ガザの共通語で唱えなければならない。
湖南地方では、わかりやすいように地元の言語で教えられる。
共通語で唱えるのは、聖職者か、熱心な信者くらいのものだ。
聖者キルクルスは、「星々は必ず天の決まった道を通り、その道を逸れることはない」と説く。聖なる星の道から太陽と月と星が、地上の生きとし生ける物を遍く照らし、その者が道を踏み外さなければ、守ってくれると言う。
キルクルス・ラクテウスは、聖者の真名ではなく、呼称だ。「星の道」を意味する古語に由来する。
アミエーラは指で、虚空に「星の道」を表す楕円の聖印を描きながら、何度も祈りの詞を呟いた。
葉を落とした枝の間から朝の光が射す。
雑妖が一匹、また一匹とどこかへ姿を消す。
アミエーラは、安堵と同時に全身の力が抜けた。眠気に襲われ、目を開けていられなくなる。
気が付いた時には、日が高かった。
時計がないので時間はわからないが、石碑の影はすっかり短い。
冬枯れの枝を抜け、鳥が飛び去る。
……もう、お昼?
アミエーラは、愕然として跳ね起きた。
堅パン一枚とチーズ一欠片を口に入れ、水で流し込む。水は三分の一だけ飲んで、きっちり蓋を閉めた。
荷物を手早くまとめ、西へ急ぐ。
暗くなってから山道を歩くのは危険だ。昨日より歩調を早めて行く。
歩きながら、考える。
……私、魔女だったんだ。
こんな薄いコート一枚で一夜を明かし、無事に目覚めた。
真冬の山中で、雑妖に囲まれたにも関わらず、だ。
雑妖に襲われなかったのは、登山道に掛けられた魔法のお陰だろう。だが、凍死しなかったのは、コートの魔法だ。
店長は、魔力がなければ、ただの服だと言った。
寒くないのは、アミエーラに魔力があるからだ。
あまり熱心な信者ではないが、リストヴァー自治区で生まれ育ち、聖者キルクルスの教えの他、何も知らずに育った。
魔法は、歪んだ欲望を肥大させ、実現させる“悪しき業”だと教えられた。その最たるモノが、二千年以上前に世界を滅ぼしかけた「三界の魔物」だ。
三界の魔物が封印された年を紀元元年とし、二一九一年の今に続く「封印歴」が始まった。再び惨禍を招かぬよう、三界の魔物を作り出した術は禁じられ、魔法使いたちも、その方法を記した書物を焼き捨てた。
聖者キルクルスは、同じ過ちを繰り返さぬよう、魔術の使用自体を禁じた。
人は何事も、自らの手で行わねばならない。
三界の魔物なき、新しい時代を築かねばならない。
その為に、魔力に依らぬ道具を工夫せねばならない。
……魔力……呪文なんて、ひとつも知らないのに。
このコートは、魔力があるだけでアミエーラを冬山の凍てつく風から守ってくれる。このゆるやかな坂道は、呪文を刻んだ敷き石が埋められ、道行く者を魔物や雑妖から守る。
……お祖母ちゃんは、魔女だった。
幼い頃で記憶は曖昧だが、あの日の帰り道、石碑から歩いた覚えがない。
気が付いたら、仕立屋の中庭に居た。
大人になった今、改めて考えると、老婆と幼児が徒歩で日没前に街まで帰れる筈がない。
祖母は、帰りも魔法を使ったのだろう。
特に口止めされた覚えもない。夢だと思ったのか、そう思わされたのだろうか。
石碑の傍に埋めてあったのは、三冊の手帳だ。
表紙にはそれぞれ、(一)(二)(三)と番号だけが記されていた。
中は、怖くてまだ開けない。リュックサックの奥底に仕舞いこんだ。
……私は、まだ、魔女じゃない。
呪文をひとつも知らず、店長がくれた品々がなければ、身を守ることもままならない。
恐らく、父とはもう二度と会えないだろう。
あの火事は、自治区の誰かが失火したものか、テロに対する魔法使いの仕返しの放火だったのか。
アミエーラは大きく息を吐き、白く立ち昇る吐息の行方を仰いだ。
今は、取り返しのつかないことを思い悩むより、少しでも生き延びることを考えなければならなかった。
頭から余計な考えを追い出し、ひたすらに山道を行く。
冬枯れの木立を縫う細い道は、どのくらい人が通らなかったのか、低木や薮に侵食され、途切れがちだ。
獣道となって細々と西へ続く。
国境警備隊はこの道を使わないのか。
アミエーラは時々立ち止まり、枝で落ち葉を掻き分けて敷き石を確めた。
薮の中から、無数の目がこちらを窺う。息を呑み、逃げるように道を急いだ。
……何とかして街へ出て……それから……?
どうすればいいのかわからない。
許可証なしで自治区民が地区外に出れば、処罰される。
通常は罰金を払えば、すぐ自治区へ送還される。それが無理なら数年間、刑務所に入れられる。
今は戦争中だ。
逮捕された後、どんな処分が待つのか、全く見当もつかない。
警官にみつかる訳には行かなかった。
自治区出身のキルクルス教徒であることをひた隠しにして、働き口と住まいを確保しなければならない。
戦争が始まった今、針子の仕事があるのか。
店長は、ネモラリス共和国とアーテル共和国が戦う理由を教えてくれなかった。
自治区の外には魔法使いが大勢いる。
魔法使いなら、戦禍から身を守るのは、そう難しくないのだろう。
半世紀の内乱中、現在のネモラリス領で主戦場だったのは、このネーニア島だ。
力なき陸の民のキルクルス教徒が多く、フラクシヌス教徒との争いが激しかったからだ。
内乱で多くが命を失い、生き残りの大部分がヴィエートフィ大橋を渡り、ランテルナ島経由でアーテル地方へ逃れた。
戦局が激しさを増し、ヴィエートフィ大橋は落とされた。
終戦後、ネモラリス領に取り残されたキルクルス教徒は改宗を迫られ、信仰を守る者はリストヴァー自治区に集められた。
ヴィエートフィ大橋は再建されたが、その後、ラクリマリス王国が魔法文明偏重政策を打ち出すと、アーテル共和国側が橋を封鎖した。
民族融和を唱えるラクリマリス王党派の意向で、細々と貿易が続いたが、アーテル側に取引を打切られ、直行便も廃止された。
ネモラリスとアーテルの間には、和平協定直後から国交がない。
……何とかして、船でアーテルに渡れないかな?
ラクリマリスとアーテルの国交断絶後は、大陸の第三国とネモラリスを繋ぐ航空路で遠回りしなければならなくなった。
旅券も何もない。交通費も、今の手持ちでは到底、足りないだろう。
それに、アーテルに渡った後、魔力を持つと知られたら、どんな目に遭わされるか。魔力があっても信仰が同じなら、認めてもらえるのだろうか。
……そんなずっと先のコトなんて、気にしたって仕方ないよね。今は早く山を抜けて、街へ出ないと。
アミエーラは、日没前までひたすら西を目指し、歩き続けた。
☆店長は、魔力がなければ、ただの服だと言った/店長がくれた品々……「0081.製品引き渡し」「0091.魔除けの護符」参照
☆あの日の帰り道……「0101.赤い花の並木」参照
☆石碑の傍に埋めてあった……「0102.時を越える物」参照
☆父とはもう二度と会えない/あの火事……「0054.自治区の災厄」「0055.山積みの号外」「0059.仕立屋の店長」参照
☆ネモラリス共和国とアーテル共和国が戦う理由……「0078.ラジオの報道」参照
「日月星、蒼穹巡り、虚ろなる闇の澱みも遍く照らす。
日月星、生けるもの皆、天仰ぎ、現世の理、汝を守る」
この祈りの詞は、既に「野茨の環シリーズ」の他の話に登場済みです。
シリーズを通しで読んだ方々だけが、この信仰の矛盾に「なんでやねん」と突っ込める仕様。
※ 全部読む時間はないけど、気になる方は、「野茨の環シリーズ 設定資料」の用語解説11をご参照ください。




