1110.証拠を託す者
「前者は、出口のない闇から逃れる為、自ら命を絶った人々とほぼ同じです。後者は、その闇を生み出す者です。穢れから雑妖が産まれるように」
レフレクシオ司祭は腹部の刺し傷が痛むのか、目を瞑ってひとつ息を吐き、再びタブレット端末を見た。
「アルトン・ガザ大陸の北部は、三界の魔物との戦いによって土地の魔力が枯渇し、魔力や霊視力を持つ人が滅多に産まれなくなりました。穢れが雑妖を産み出すことは、聖典に記されておりますが、それを実際に自分の目で確認できる人は、ほんの一握りです」
ロークは、やはりそうかと納得した。
教会の建物に護りの術が仕込まれ、無自覚な力ある民が発動させても、多くの信徒が感知も認識もできない。
魔術の恩恵に無自覚だから、すべての魔術を“悪しき業”と呼び、魔法使いを邪悪な存在だと一方的に断罪できるのだ。
「聖者キルクルス・ラクテウス様が目指した世界は、魔術を戦争など、誰かを傷付ける為に悪用しない平和な世界です。魔術の完全な排除や、魔法使いの根絶ではありません。生まれつきの魔力の有無を根拠に人を差別する社会でもありません。今一度、聖典を隅々まで読み返し、ご自身の目で確かめた上で考えて下さい」
レフレクシオ司祭の顔に疲れが見え始めたが、彼は魔女クラウストラが操作するタブレット端末に向かって証言を続ける。
「私は、私を刺した少年を許します。彼もまた、腐敗の犠牲者だからです」
彼は刺された直後も、ヂオリートに許しを与え、魔獣から逃がそうとした。
レフレクシオ司祭は、大聖堂から派遣されたばかりで、ポーチカの件とは無関係だ。それでも、聖職者の一人として、キルクルス教団アーテル支部の腐敗の罪を傷として受け止めた。
「許しは、いつ、いかなる場合でも、無条件に与えられるものではありません。また、許しを与える権限を持つ者や、その種類も、すべてひとしく有る訳ではなく、状況や立場などによって異なります」
言葉を切り、動画の視聴者が理解する時間を待って、続きを語る。
そう言えば少し前、同じ話を神学生ファーキルからも聞いた。彼がいつ、退院したのか聞けない状況だったが、もしかすると、レフレクシオ司祭の説教を聞いたことがあるのかもしれない。
「例えば、私に与えられるのは彼の罪への許しですが、私が許しを与えたからと言って、世俗の司法は彼を無罪放免にはしないでしょう。彼の家族や友人には、彼が生きて罪の償いをする許しは与えられますが、罪そのものへの許しや、司法上の放免は与えられません」
具体的に言われれば、外野が他人の罪に許しを与えるか否かについて、とやかく言うこと自体がどうかしているのがよくわかる。
「罪への許しは、強制できるものではありません。キルクルス教社会では、被害者や遺族に対して、身近な人々や周囲の人々、顔も知らない赤の他人や聖職者までもが、“早く許しを与え、寛容を示せ”と急かす傾向があります。そのように、本来その権利を持たない人々に促され、心の整理がつかない内に出された“形だけの許し”に何の意味があるのか、一度、立ち止まって考えて下さい」
レフレクシオ司祭の目が強い輝きを宿し、まだ見ぬ未来の視聴者へタブレット端末越しに訴えかける。
「加害者自らが『こんなに謝ってやったのだから、もういいだろう。さっさと許しを与えよ』などと被害者らに強要したのでは、その行為自体が、まだ許しを与えられる状態ではないことを示します」
喩え話と言うにはやけに具体的だ。
「何の反省もない加害者が、被害者らの苦しみへの理解すらない状態で形式的に謝罪し、周囲がそれに応じるよう被害者らに圧力を掛け、被害者らがそれに屈して心の傷が癒えない状態で形式的に許しを与えることが、ここ、アーテル共和国でも罷り通っています」
……そんなの、ネモラリスでもどこでも、あると思うけどな。
ロークは、司祭が何を言おうとするのか見極めようと、クラウストラの斜め後ろから一歩前に出た。
「……先日、アーテル共和国の犯罪統計を拝見しました。殺人や傷害など、重大な事件の被害者はや遺族の八割は、加害者が応じないせいで、世俗的な損害賠償を受けられずにいます。加害者は形式的に謝罪し、形式的に与えられた許しを以て解決したと看做すからではありませんか? みなさんも、一度よく考えて下さい」
資産がなければ、服役中には払えない。だが、出所後に働いて返さず、行方を晦ます者が多いのは、ネモラリス共和国でも同じだ。
フラクシヌス教は、ラキュス湖の水位を保ち、畔や水中に住まうこの世の生き物すべてを慈しむ教えで、キルクルス教のように人の心や行動に課す戒律はない。
……キルクルス教には、色々戒律があるのにこのザマじゃ、意味ないよな。
「許しを与えよと被害者らに迫った人々は、加害者が賠償に応じず行方を晦ませても、加害者の代わりに賠償金を支払いません。形式的な許しを以て事件を終わったものとして扱います。悲嘆に寄り添うどころか『いつまでもしつこくメソメソするな』などと、被害者や遺族の心の傷に塩を擦り込む者さえ居ます」
被害者や遺族が、世俗の人に悩みを打ち明け難くなり、孤独の闇に呑まれる理由のひとつがこれだ。加害者が聖職者の場合、ポーチカのように出口のない闇を彷徨うしかない。
「形式的な許しは、加害者を自由にして再犯を招く要因のひとつになりますが、被害者に対して許しを与えよと迫った人々は、何の責任も負いません。それどころか、加害者を“可哀想な弱者”と看做し、償いを求める被害者らを“欲深い悪”と断じる者さえ居ます」
……どこにでも居るんだなぁ。
ネモラリス共和国など魔法文明圏の国々では、裁判所が所有する【鵠しき燭台】や【明かし水鏡】など魔法の道具で過去の事実が明らかになる為、冤罪は発生しない。揉めるのはせいぜい、量刑の判断くらいなものだ。
ロークは、アーテル共和国内のニュースに接して、科学の捜査だけではどうしても、冤罪が生じてしまうと知った。
司法の誤り……国家権力が相手では、個人では対抗できない。その意味では、科学文明国に於ける“現行犯ではない被疑者”はすべて、国家……捜査当局や司法当局に対しては弱者と言えるだろう。
アーテル共和国などの科学文明国では、冤罪を未然に防ぐ活動や、冤罪の可能性が高い事件の被疑者や服役囚を支援する活動は、必要だろう。
「加害者は、実際に危害を加え、他者の人権を踏み躙った力を持つ強者です。形式的な許しは、被害者らに更なる苦痛を与え、絶望の闇に突き落とすのです」
アーテル領内で様々な事件の報道に触れる度、漠然と感じたことに明確な言葉を与えられ、ロークは視界が一気に拓けた気がした。
レフレクシオ司祭が落ち着いた声で続ける。
「これらは全て、私がアーテル共和国に赴任して半年足らずの間に寄せられた被害者や遺族の証言や、彼らに託された証拠、私が直接、見聞きしたことです」
大聖堂のエリート司祭は、未来の視聴者に向けて熱っぽく語る。
関係者のプライバシーを守る為、具体的な事件の経緯や個人名を出せないのがもどかしい。
「無原罪の清き民は“三界の魔物を作った罪”を負わないだけです。何をしても無条件に許しを与えられ、償いを免れる権利を持つ者と言う意味ではありません。聖典の光跡記を隅々まで繰り返し読んで、本当の許しとは何か、本当の謝罪や償い、支えとは何か、一人一人がじっくり考えて下さい」
レフレクシオ司祭は祈りの詞を唱え、目顔で黒髪の魔女に合図した。
動画撮影を終え、クラウストラがポシェットからもう一台、タブレット端末を取り出して言う。
「司祭様の端末では、アーテル当局の規制に阻まれて、閲覧できないサイトが多いでしょう。ユアキャストとか」
「はい。礼拝の音声を載せようとしたのですが、アクセスが遮断されて非常に驚きました」
レフレクシオ司祭の視線が、黒髪の魔女の手許に移る。
「この端末なら、バンクシアと同様、自由にアクセスできます。但し、アーテル共和国では、違法とされるアプリケーションで、規制や検閲を掻い潜るものです。書き込みはせず、閲覧だけに留めて下さい」
魔女が淡々とした説明を終えると同時にレフレクシオ司祭は力強く頷いた。
「この分では、アーテル領内で利用できるクラウドも、信用できないでしょう。私の端末は、あなた方にお預けします。データは、私の身に何かあった場合、ご自由にお使い下さい」
ロックの解除方法を説明して、ヤミ端末と交換する。
クラウストラは思い出したように付け加えた。
「接続料はお気になさいませんよう。……そろそろ戻りましょう」
「何から何まで、ありがとうございます」
看護師の巡回時間まで、残り三十分を切った。
イグニカーンス市の廃病院から、首都ルフスの中央病院に【跳躍】し、レフレクシオ司祭を置いて隠れ家に跳ぶ。
ロークは、無事に一仕事終えられた安堵より、これからの不安の方が大きかった。
☆刺された直後も、ヂオリートに許しを与え、魔獣から逃がそうとした……「1075.犠牲者と戦う」「1076.復讐の果てに」参照
☆少し前、同じ話を神学生ファーキルからも聞いた……「1104.隠せない腐敗」参照
☆キルクルス教社会では(中略)“早く許しを与え、寛容を示せ”と急かす傾向……「182.ザカート隧道」「183.ただ真実の為」参照
☆ポーチカの件……「923.人捜しの少年」~「925.薄汚れた教団」参照
☆無原罪の清き民は(中略)償いを免れる権利を持つ者と言う意味ではありません……「1013.噴き出す不満」参照
※ ウィオラは、周囲の支えで闇を抜け出せた。ポーチカとの違いは周囲の環境。
リストヴァー自治区東部バラック街の治安レベル……「046.人心が荒れる」「374.四人のお針子」「485.半視力の視界」参照
親に売られて、望まない子を産む……「294.弱者救済事業」参照
望まれずに産まれた子を周囲の人々が支える空気があった……「372.前を向く人々」参照
暴行を受け、赤子を殺される……「373.行方不明の娘」参照
加害者に報復するが失敗……「405.錆びた鎌の傷」参照
自殺を図るが助けられる………「406.工場の向こう」「418.退院した少女」参照
傷付いた心を支える者が居る……「420.道を清めよう」参照
見舞いの品を盗まれそうになるが守られる……「480.最終日の豪雨」~「485.半視力の視界」参照
心の支えになった者と結婚……「786.束の間の幸せ」参照
お互いを思い遣る夫婦になった……「895.逃げ惑う群衆」「897.ふたつの道へ」参照




