1095.本格的な治療
「ゴメンね。私の確認が足りなかったせいで、こんな……」
少女の声が震える。
「いえ、そんな。クラウストラさんのせいじゃありませんよ。まさか、キルクルス教の礼拝堂にあんなたくさん【消魔の石盤】があるなんて、俺も全然知りませんでしたし」
「隠れ家で治してもらったんですけど、プロじゃないから止血しかできなくて」
……えっ? ロークさんが怪我したの?
薬師アウェッラーナは、葬儀屋アゴーニと顔を見合わせた。二人とも、大荷物を抱えたまま、戸口から動けない。
「それで、交換品でもらった魔法薬、少し使わせて欲しいんです。しばらくタダ働きでいいので」
「バカ言うんじゃねぇ!」
呪符屋の怒声が店を震わせ、奥で誰かが息を飲むのが戸口まで聞こえた。
「薬代は、危ねぇ真似させやがったフィアールカの奴からふんだくってやっからよ、ケチケチしねぇでたっぷり使え!」
「あ、あのー、ロークさん? 大丈夫ですか?」
アウェッラーナは震える足を踏み出し、カウンターから奥に声を掛けた。店主が飛び出し、顔を輝かせて叫ぶ。
「姐ちゃん、丁度いいとこに! ちょっと診てやってくれ! 呪符代オマケすっからよ」
手を引かれて作業室に入り、アウェッラーナは一瞬、息が詰まった。
作業用の椅子に腰掛けたロークがTシャツの裾を捲り、傍らには硬い表情の少女と、涙でぐしゃぐしゃの元神学生スキーヌムが立つ。
ロークの胸には何かに抉られた大きな傷が一筋あった。出血はないが、科学の治療なら何十針も縫わなければならないだろう。
呪符屋の店主が薬師アウェッラーナの大荷物をそっと取って聞く。
「すぐ、治せそうか?」
「これ……どうしたんですか?」
傷の周囲が炎症を起こして膨らみ、顔色もよくない。
「昨日、魔獣に襲われて、どうにか逃げて来たんです」
「えっ? どこでですか?」
べそをかく少女に聞くと、意外にもしっかり答えてくれた。
「ルフスです。新しい司祭の説教、どんなのか確かめに行ったら、教会に魔獣が入って来て……」
……確かに、元キルクルス教徒のロークさんでないと、わかんないんでしょうけど、アーテルって首都でもそんななの?
魔術の防護がない街のあまりの無防備さに呆れて声も出ない。
「私たち、【跳躍】で逃げようとしたんですけど、床に【消魔の石盤】がいっぱいあって……」
「とにかく、二人とも生きて戻れてよかったです」
「おいおい、兄ちゃん、あんま無理してこっちに仕事回すんじゃねぇぞ」
「アゴーニさん……」
ロークが涙を堪えて声を震わせる。
呪符屋の店主は、彼の徽章を見て顔を顰めた。
「このくらいなら、明日には治りますから、大丈夫ですよ」
薬師アウェッラーナは、アガート病院でいつもそうしたように患者を安心させる為の笑顔を作り、葬儀屋アゴーニに持ってもらった袋から、プラ製の薬瓶を取り出した。
「すみません、コップ、貸してもらっていいですか?」
「スキーヌム」
呪符屋の店主が顎をしゃくり、元神学生の少年は泣きじゃくりながらカウンターに出た。
アウェッラーナはティーカップを受取り、二目盛分の薬を注いだ。
「これ、化膿止めの毒消しです。あっ、何の魔獣が出たんです?」
「双頭狼です」
黒髪の少女の答えにアウェッラーナは血の気が引いた。ゆっくり深呼吸して意識的に動揺を鎮める。
「尻尾の蛇に咬まれたり、牙を引っ掛けられたり……」
「それは大丈夫です。傷、これだけなんで」
「そう……よかった」
今度は本当に安堵した笑顔で、患者にカップを渡す。
「先にそれを全部飲んで下さい」
呪符屋の店主に荷物を返してもらい、傷薬のプラ容器を出す。
「お水、お借りしますね」
「おう、幾らでも使ってくれ」
隅の水瓶から【操水】で水を起ち上げて傷を洗い、かさぶたを剥がす。アゴーニも【操水】を唱えて汚れた水を受取り、中身を床に排出させた。
「他に血の着いたモンがありゃ、一緒にまとめて焼くぞ」
「おっ、すまんな」
店主がゴミ箱を指差す。
アゴーニは水に命じて中身を出し、かさぶたの上に重ねた。
薬師アウェッラーナは、患部に傷薬を塗って【薬即】を唱える。
「星々巡り時刻む天 時流る空
音なく翔ける智の翼 羽ばたきに立つ風受けて 時早め
薬の力 身の内巡り 疾く顕れん」
傷は大きいが、浅かった。緑色の軟膏があっと言う間に染み込む。
「このくらいでしたら、今夜にでもキレイに塞がりますよ」
「ありがとうございます」
ロークと少女、店主が声を揃え、元神学生の少年は床にへたり込んだ。
葬儀屋が血液で汚染された物を焼いた灰をゴミ箱に捨てて声を掛ける。
「坊主、大丈夫か?」
「おめぇが怪我したんじゃあんめぇし、しゃきっとしろ」
店主が店番の肩を叩くと、少年は手の甲で涙を拭い、ふらふら立ち上がった。
……まぁ、普通の人はこんな大きな怪我、見るのも初めてでしょうからね。
「油性のマジックがあれば、お借りしたいんですけど……」
「ちょっと待ってくれよ」
店主が戸棚を漁る。
アウェッラーナは黒いペンで、薬の容器に刻まれた目盛にひとつ飛ばしで印を付けた。
「印の所が一回分で、これ一瓶で三日分あります。これから毎日、食後に一回ずつと寝る前にも一回、一日合計四回、腫れが引いても中止しないで全部、服用して下さい」
店主がメモを取って聞く。
「もし、飲み忘れたら、どうすりゃいいんだ?」
「それは一回休みと言うことにして、次に二回分飲まないで、次も一回分だけ飲んで下さい」
「だとよ。ローク、忘れんじゃねぇぞ」
「はい。ありがとうございます」
礼を言ったロークは、心持顔色がよくなった。
「清潔なガーゼと包帯はありますか?」
「さっき買って来た」
店主が作業机から紙袋を取って薬師に渡した。
傷の保護を終え、アウェッラーナもやっと安心できた。注文した呪符を確かめ、薬で払う。
「えっ? ホントにこんな少しでいいんですか?」
「治療代だよ。ローク、今日はもういいから、宿で寝とけ」
元神学生のスキーヌムだけが店番に残り、四人は宿へ向かった。
☆キルクルス教の礼拝堂にあんなたくさん【消魔の石盤】がある……「1074.侵入した怨念」「1075.犠牲者と戦う」参照
☆新しい司祭の説教、どんなのか確かめに行った……「1069.双頭狼の噂話」~「1077.涸れ果てた涙」参照
☆薬師アウェッラーナは、アガート病院でいつもそうしたように患者を安心させる為の笑顔……「0005.通勤の上り坂」「0006.上がる火の手」参照
☆注文した呪符……「1063.思考の切替え」「1064.職場内の訓練」参照




