1082.自力で癒す傷
呼吸をする度に胸の傷が疼く。
量は多くないが、出血は止まず、じわじわ肌を伝い落ちてズボンを染めた。
……ベッド……汚れる?
熱を持ち始めた傷が、鼓動に合わせて存在を主張し、思考がまとまらなくなってきた。洗ってもらった傷を汚れたハンカチで押さえるのも、痛む箇所に触れるのも抵抗がある。
立ち上がって貧血を起こせば、倒れてもっと部屋を汚しかねなず、浅く呼吸するばかりで、身動きひとつ取れなかった。
どのくらい経ったのか、不意に隣の部屋に人の気配が現れた。
首を巡らすのも億劫だ。
クラウストラの声が【操水】を唱えるのが聞こえた。
足音と一緒に清涼な香りが近付いて来る。
どうにか顔を向けると、クラウストラはロークの鞄と先程のマグカップを持ち、宙に浮かせた香草茶を連れていた。
ベッドに鞄を置き、もう一度【操水】を唱える。
カップから水が起ち上がり、ロークの傷を洗う。その冷たさが心地よく、少し意識がはっきりした。
水が腹を伝い、ズボンを洗って離れる。空いたカップには香草茶が収まり、ロークの前に差し出された。
「持てるか?」
ロークはゆっくり息を吸い、香気を胸いっぱいに取り込んだ。
意識的に肩の力を抜き、【化粧】の首飾りを握った手を開く。指がぎこちなく動き、壊れた首飾りが床で乾いた音を立てた。
「後で拾うから、カップを持て」
クラウストラが力ある言葉で何か言うと、ハンカチを握った手が水に包まれた。こちらもどうにかハンカチを離せた。汚水に連れて行かれたハンカチが、水流の中でくねりながら血の染みを手放す。
彼女は、ロークの右手にマグカップの把手を握らせ、もう一方の手を取って添えさせた。両手でも酷く重く感じる。
「ハンカチを洗う間に飲んでくれ」
返事も待たずにハンカチを含んだ汚水を連れ、行ってしまう。
ロークはゆっくり息を吐き、マグカップをどうにか口許まで引き上げた。
出血の量は減ったが、まだ滲むのが感じられた。
ぬるくなった香草茶を少し口に含み、湿り気を口全体に行き渡らせる。飲み始めると止まらなくなった。
クラウストラが空のカップを受け取り、代わりに【魔力の水晶】を握らせて隣室へ行く。
……これだけ大きかったら、【水晶】だけで何とかなるよな。
ロークは、呪医セプテントリオーに教えられた呪歌と同時にランテルナ島の庭園を思い出した。
力ある言葉で小さく歌うと、【魔力の水晶】を握る手があたたかくなった。
「青い翼 命の蛇呼んで 無限の力 今 ここに来て
翼 はたはたと 癒しの風を送る ひとつの風を……」
どこか遠い所から風が吹くのが感じられたが、閉め切られた部屋の遮光カーテンは、そよとも動かない。
目を閉じてゆっくり歌う。
「泣かないでね この痛みすぐ癒す 今から心こめ癒すから
命 繕って 苦しみ去って 元気になった 見て ほら……」
瞼の裏に光が見える。風は身体の奥から吹くようでもあった。
風が胸を吹き抜ける度に痛みが引いてゆく。
ランテルナ島の拠点で一緒に練習した仲間の顔が次々浮かぶ。
外界から隔離された【結界】内に建つ別荘は、いつ、武闘派ゲリラが戻るかわからない緊張感はあったが、他のアーテル領よりずっと「平和」だった。
薬師アウェッラーナとは、つい先日会ったばかりだが、他のみんなはどうしているのか。
仲間を思い出す度に集中が乱れ、風が弱くなる。
「……青い翼 命の蛇呼んで 無限の力 今 ここに来て
翼 はたはたと 癒しの風を送る ひとつの風を」
それでもどうにか、長い呪歌を最後まで間違えずに歌えた。
……久し振りに歌ったけど、意外と覚えてるもんだな。
ロークはそっと瞼を上げ、視線を下げた。
出血は止まったが、牙で裂かれた傷は完全には塞がらず、炎症も残った。ルフス光跡教会で、何人ものキルクルス教徒を食い殺した直後の牙だと思い出し、背筋が凍った。
クラウストラが、向かいのベッドの下にある抽斗を開ける。取り出したのは、黒無地のTシャツだ。
壊れた首飾りを拾い、ロークの胸をまじまじと見た。
「着替えを手伝おう」
「あ、いえ、自分で……」
有無を言わさぬ圧力に負け、ロークは命令に従った。
夏物のジャケットをするりと肩から外され、破れたTシャツが傷に触れないよう、裾を捲られる。両手を上げ、破れた服を抜き取ると、クラウストラは自分のバッグからキッチンペーパーとガムテープを取り出した。
「薬局が閉まっていたのでな。こんな物しか調達できなかったが、ないよりはマシだ」
「あ、いえ、ありがとうございます」
中途半端に治った傷を新品のキッチンペーパーとガムテープで保護され、誰の物かわからないTシャツを着せられた。
ベッド下収納から出した割に湿っぽさはない。
……ちょくちょく洗濯するくらい利用頻度高いのか?
「鞄、ありがとうございます。どうやって回収したんですか?」
「タクシーで行って、フロントにキーを見せ、光跡教会で魔獣に襲われて入院したから、宿泊をキャンセルすると言っただけだ」
「えっ? それだけですか?」
「私のこの顔は、一緒に居る姿が防犯カメラに記録されているからな。泣き真似に随分、同情された」
ロークは微妙な気持ちで、長命人種の魔女を見た。
「タクシーで病院に行き、その車輌が別の客を乗せて去ってから、物陰で【跳躍】した。……そんなに気になるか?」
「えっ? えぇまぁ、待ってる間ずっと、考えてました」
隠すまでもなく、正直に答える。
「そうか。その【水晶】は持っておくといい。今後も何かと使えるだろう」
「いいんですか? こんな大きいの」
「値段は気にしなくていい。もらい物だ。私は別件で出掛けるが、明日の朝には戻る。冷蔵庫の物は好きに食べてくれて構わん」
どこに行って何をするか、聞いてはいけない気配を感じ、ロークはクラウストラの【跳躍】を見送った。
☆呪医セプテントリオーに教えられた呪歌……「348.詩の募集開始」「349.呪歌癒しの風」参照
☆ランテルナ島の庭園……「320.バーベキュー」「345.菜園を作ろう」参照
☆外界から隔離された【結界】内に建つ別荘……「228.有志の隠れ家」「318.幻の森に突入」参照
☆薬師アウェッラーナとは先日会ったばかり……「1063.思考の切替え」参照
☆私のこの顔は、一緒に居る姿が防犯カメラに記録されている……「1069.双頭狼の噂話」参照




