1081.隠れ家で待つ
クラウストラの【跳躍】先は、飾り気と生活感のない部屋だった。
アーテル領内の隠れ家のひとつだと言う。
ロークは、平和な頃に映画で観た刑務所を連想した。
遮光カーテンで外は見えず、天井付近に点された【灯】が狭い室内をぼんやり照らす。コンクリート打ちっ放しの壁に沿って、簡素なベッド二台と小さな冷蔵庫が置かれた他は、家具らしいものは何もなかった。
「この隠れ家には、薬を置いていない。傷を洗い、着替えてからチェルノクニージニクに跳ぶ」
「俺、【癒しの風】使えるんで、後で魔力貸してもらえますか?」
クラウストラは【化粧】の首飾りで作られたあどけない目を見開いた。
「呪歌を歌えるのか」
「ランテルナ島に居た頃に教わりました。【不可視の盾】の使い方も習ったんですけど、【守りの手袋】を宿に置いて来たせいで、こんな……」
真夏に革手袋は不自然だと思い、鞄に入れっ放しにしてしまった。
クラウストラが隣室へ行き、片手鍋に水を満たして戻る。
手を除ける時、傷の幅がハンカチより長いと気付いた。水が傷にしみたが、壊れた首飾りを握る手に力を入れ、歯を食いしばって耐える。
クラウストラは、血の混じった水を連れて隣室に引っ込み、今度は大粒の【魔力の水晶】を持って来た。ロークの人差し指の三分の二くらいある。
受取ろうと伸ばした手は、ハンカチを握った状態で固まって動かなかった。
顔から血の気が引く。
もう一方の手も、【化粧】の首飾りを握ったまま指が開かなかった。
「指が開かんのか?」
ロークは声もなく頷いたが、クラウストラの表情は変わらなかった。
「ここには香草茶もない。……座れるか?」
少女の手が肩に触れ、そっとベッドに誘導した。ロークは促されるまま腰を降ろし、微かな軋みに身を竦ませる。
胸の傷から血が滲むのがわかったが、ハンカチで押さえるのも、直視するのも怖くて動けなかった。
「あっ……あの、鞄……」
「鞄?」
「鞄に香草茶……」
「持って来たのか。用意がいいな」
クラウストラは、ロークの肩を軽く叩いて隣室に行く。彼女の姿が見えなくなった途端、不安に襲われた。
……さっきは大丈夫だったのに、何で?
震えが止まらない。双頭狼に裂かれた傷が熱を帯びて疼く。
足音に顔を上げると、クラウストラの気遣わしげな藍色の瞳と視線が合った。
「化膿止めの【毒消し】も調達せねばな」
クラウストラは、ステンレスのマグカップを手にロークの右隣に腰を降ろした。
「チェルノクニージニクに戻れば、アウェッラーナさんの薬が」
「その前に応急処置が必要だ。今は、水を飲んで待って欲しい」
「じゃあ、俺も一緒に」
「そんな恰好でビジネスホテルに戻ったのでは目立つ。ここは安全だ。万が一、誰かが来ても出る必要はない」
問答無用でマグカップを口許に寄せられ、ロークは諦めて唇をつけた。金属のひんやりした感触に続いて、少しずつ冷たい水が流れ込む。
舌に触れた水が口全体に広がり、熱を奪いながら潤す。渇きを自覚した喉は、更に水を求めた。
クラウストラは無言の求めに応じ、ロークの後頭部を支えてカップを傾けてくれる。飲み干して大きく息を吐くと、身体の震えが治まった。
「ルームキーは……こちらか」
クラウストラはズボンの膨らみに目を走らせ、断りもなくロークの右ポケットに手を突っ込んだ。
あまりのことに呆然とするロークに構わず、部屋番号を確認して立ち上がり、隣室へ移動しながら言う。
「荷物を回収したらすぐ戻る」
カップを置く軽い音に続いて【跳躍】を唱える声が聞こえ、それきり静かになった。
取り残されたロークは、左右の手に壊れた首飾りと血染めのハンカチを握ったまま、天井を仰いだ。月光のようにやわらかな【灯】は、直視しても目が痛まない。目を閉じても、冷蔵庫のモーターが低く唸るだけで、人声などは聞こえなかった。
……ここ、どんな物件なんだろう?
ロークは改めて見回したが、壁、天井、床のどこにも、呪文や呪印は見当たらなかった。
科学の建築技術だけで【静音】や【防音】の術と同等の効果があるのか。それとも、他に入居者のない物件なのか。念入りに術の存在を隠したのか。
電気があるからには、廃屋ではなく現役の建物なのだろうが、あまりにも静か過ぎる。
腕時計が視界に入った。
……もう七時過ぎ?
ルフス光跡教会の夕べの祈りは、十七時から十八時の予定だったが、魔獣の乱入で大混乱に陥った。あっという間に感じたロークは、時間の感覚がわからなくなった。
今の時期なら、この時間でもまだ薄明るいが、女子中高生が一人で出歩くには、色々な意味で危険だ。
つい先程、クラウストラが【急降下する鷲】学派の術も使えるとわかった。力ある民の彼女が、アーテル人にどうこうされるとは思わないが、今の外見は十代半ばの少女だ。
ホテルの係員が常識を弁えた「良識ある大人」なら、こんな時間に一人でビジネスホテルを訪ねる少女を客室に通すだろうか。
だが、ロークがついて行ったところで、同じことだ。【化粧】の首飾りが壊れなかったとしても、一度外せば二度と同じ顔にはならない。
ルームキーがあっても、ローク自身の顔では、フロントの顔認証を通してもらえず、身分証もないので正当な客だとの証明もできなかった。
……クラウストラさん、どうやって荷物を回収する気なんだろう?
チェックアウトの予定は明朝十時で、宿泊料の残金もその時に払う。門前払いされたら、後で係がマスターキーで開けて荷物を回収してしまう。
……宿代踏み倒して逃げたコトになるから、警察に届けられるよな?
鞄には、科学文明国では身元の特定に繋がる品はないが、【守りの手袋】がみつかると厄介なことになりそうだ。
ロークは、胸の痛みから気を逸らす為、一人で考えても仕方のないことを考え続けた。
☆クラウストラの【跳躍】で移動した先……「1077.涸れ果てた涙」参照
☆呪歌を歌える/ランテルナ島に居た頃に教わりました……「348.詩の募集開始」「349.呪歌癒しの風」参照
☆【不可視の盾】の使い方も習った……「354.盾の実践訓練」参照
☆【守りの手袋】を宿に置いて来た……「1069.双頭狼の噂話」参照
☆ルフス光跡教会の夕べの祈り……「1069.双頭狼の噂話」~「1077.涸れ果てた涙」参照
☆クラウストラが【急降下する鷲】学派の術も使える……「1076.復讐の果てに」参照




