1077.涸れ果てた涙
ロークは突然、深い悲しみに襲われ、説教壇に身を預けて深く息を吐いた。
……シルヴァさんだって? じゃあ、これ【魔道士の涙】の記憶?
胸の傷をハンカチで押さえるだけで精いっぱい、とめどなく流れる涙を拭うこともできない。
ゲリラの【涙】を【光の槍】で撃ち抜いたクラウストラも、呆然と双頭狼を見詰めた。
<アーテルの爆撃機がいきなりやって来て、街も家族も職場も友達も故郷も、何もかも焼かれたんだぞ? 俺らが一体、何したって言うんだ?>
脳裡に街を焼く炎の壁が広がる。
ロークは、あの日の運河を思い出し、震えが止まらなくなった。
<やっと半世紀の内乱が終わって、平和になったと言うのにね>
<そうだろ? 俺の子は内乱中にみんな殺されてな。平和になってから生まれた末っ子がやっと一人前になって、春に婚礼衣装を着る筈だったんだ。それなのに、何もかも、アーテルの連中に焼き払われて……>
ロークは、自分の物ではない悲しみに胸を締め付けられ、涙が溢れた。
民家が燃え盛り、人の群が影絵のように立ち尽くす。
誰かが呪文を唱え、人影がひとつ、またひとつと炎の壁の前から消えた。
<わかるわ、その気持ち。私もね、内乱が終わるまで生き延びられた身内は、真ん中の息子と従兄だけなのよ>
老婦人シルヴァの声が、静かに悲しみを打ち明ける。
<平和になって、息子が所帯を持って、孫が生まれて、やっと幸せが戻ってきたと思ったのにね>
老婆の声が脳裡に響いた。
何もない焼け跡に這いつくばり、何日も捜し続けてやっと大切な家族の【魔道士の涙】をみつけた。
灰の中で背を丸め、小さな【涙】を抱いて、いつ果てるともなく涙を流す。
老女の涙が涸れ果てても、悲しみは終わらなかった。
礼拝堂内のあちこちで啜り泣く信徒が、詫びの言葉を祈りのように唱える。
<アーテルの空襲で何もかも失って、もう涙も涸れ果ててしまったわ>
<許すもんか。あいつら、絶対、許しちゃダメだったんだ>
<そうね。国を分ける和平なんて、まやかしだったのよ>
<内乱中も、こんな無差別爆撃やら毒ガスやらで、戦う力のない子供まで皆殺しにした癖に……何が悪しき業だ! 化学兵器で大量虐殺するのは悪くないって言うのか!>
生前、メドソースと呼ばれた男性の声が、憤りに震える。
ゲリラの勧誘員シルヴァが感情の籠もらない声で告げる。
<キルクルス教徒はね、聖典を根拠に私たち魔法使いを殺すことを正当化するから、罪悪感なんてカケラもないのよ>
<許さない……絶対、許さない、死んでも許すもんか>
憎悪ではない。
絶望と悲しみが重くのしかかり、ロークは床に膝を突いた。
<ポーチカ姉さんは、僕の点数が足りなかったせいで、大司教に賄賂として贈られたんです。ルフス光跡教会の働きかけで、中等部から神学校に入学できましたけど、こんな汚いやり方……>
ヂオリートの声が頭に響く。
今、礼拝堂に居るヂオリート自身は、レフレクシオ司祭を見詰めて動かない。
彼らの向こうで双頭狼が灰になる。
<そうなの? なら、坊やにこれをあげるわ>
<これは?>
<魔法の宝石よ。きっとお姉さんの力になってくれるから、持って行ってあげなさい>
シルヴァの声はとてもやさしく、悲しみに凍えた心に染みた。
<お嬢ちゃん、あんた、俺の娘と同い年でそんな>
<いいんです。私なんかもう。本当の私は、きっと両親と一緒に魔獣に食べられて、今の私は、育ててくれた親戚に恩返しする為だけに居る……幽霊みたいなものですから>
女性の声は淋しげな笑いを転がした。
男性の声が気遣う。
<でも、お嬢ちゃん、あんた、泣いてるじゃないか>
<いいえ。嬉しいんです。メドソースさんが私に力を貸してくれたから。大司教様にも、他の司祭様たちにも、たっぷり仕返しできたんですもの>
女性の声が喉の奥で笑った。
<私は力なき民だから、何をされても何もできなかったし、育ててもらった恩があるから、逃げられもしなかったんですよ。ねぇ? 司祭様、痛い? 私がどんなに苦しんだか、わかります?>
笑いを含んだポーチカに応える声はない。
<俺も、お嬢ちゃんが居なけりゃ、こんな上手く復讐できなかった。アーテルの軍を動かした連中を始末できたのは、お嬢ちゃんが身体貸してくれたお陰だ>
予想通り、ネモラリス憂撃隊のメドソースが残した【魔道士の涙】と、ポーチカは、アーテル共和国のキルクルス教団と言う共通の敵が居ることで協力し、復讐して歩いたらしい。
アーテルの政治家や政府要人は、教団との繋がりが強固だ。
ポーチカの声が揺れる。
<でも、殺しても、殺しても、まだ心が晴れないの。私に直接手を出した人たちは、もうみんな殺したのに、まだまだ殺し足りないの>
<軍人も政治家も、そいつらを支持する連中も、まだまだ居る……>
<この国の司祭様たちをみんな殺したら、すっきりすると思いますか?>
不意に、メドソースの声から激情が消えた。
<それはわからんよ……この涙の雨が止めば、いつか、ひとつの花が咲くかも知れないけどな>
<それがフラクシヌス教の教えなんですか? 私もアーテルなんかじゃなくて、そっちで生まれてたら、こんなことにならなかったのかな……?>
礼拝堂に人々の啜り泣きが響き、誰一人として動けないでいた。
双頭狼を魔法で攻撃した男性二人も、頭に直接響く声に意識を向けるらしく、宙を睨んで動かない。
<お嬢ちゃん、あんたはまだ生きてる。生きてさえいれば、その内>
<私はもういいんです。こんな大勢の人を殺して、血塗れの手で、お花ひとつ分の幸せだって、持っちゃいけないんです。いっそ魔獣にでも食べられて、私が丸ごと消えてなくなれば、すっきりするかも>
【魔道士の涙】の破片が輝きを失い、頭に響く声が聞こえなくなった。
「姉さん! ポーチカ姉さん!」
ヂオリートが床に散った灰を掻き集めて嗚咽を上げる。
クラウストラが、ロークの傍らにしゃがんだ。
「ひとまず、拠点へ跳ぶ」
「あッ……荷物……!」
「回収は、治療を終えてからだ」
耳元で囁き、【跳躍】を唱える。
もう何度も経験した軽い目眩に似た感覚の後、ロークの身はルフス光跡教会の礼拝堂ではなく、全く知らない部屋にあった。
☆【魔道士の涙】の記憶……「0003.夕焼けの湖畔」「236.迫りくる群衆」「925.薄汚れた教団」「0952.復讐に歩く涙」参照
☆あの日の運河……「0056.最終バスの客」~「0058.敵と味方の塊」参照
☆こんな無差別爆撃……「570.獅子身中の虫」、外伝「明けの明星」(https://ncode.syosetu.com/n2223fa/)参照
☆毒ガス……「359.歴史の教科書」「449.アーテル陸軍」「570.獅子身中の虫」「685.分家の端くれ」参照
☆アーテルの政治家や政府要人は、教団との繋がりが強固……「868.廃屋で留守番」「1067.揉め事のタネ」参照
☆こんな大勢の人を殺して……「0967.市役所の地下」「0998.デートのフリ」「1025.二人の犠牲者」参照




