1075.犠牲者と戦う
ステンドグラスを破って侵入した魔獣は、恐らく、ニュースで見た双頭狼だ。
男女の頭部が獣の咆哮を上げ、聖職者とキルクルス教徒を食い散らかす。
パジョーモク議員は司会者としての使命感に駆られたのか、マイクを握って頻りに避難を呼び掛け、自分は逃げようとしなかった。
「多少、周囲を巻き込んでも構わん。生かして確保せよ」
ラズートチク少尉が低く囁き、人の群に逆らって礼拝堂の壁伝いに進む。魔装兵ルベルは大柄な体躯を縮め、遅れないようついて行く。
力なき民の群が他人を押し退け、長椅子を乗り越え、我先に大扉へ殺到する。
倒れた者の上を大勢の靴が踏みつけて行く。
前を行く群を半狂乱で急かす罵声と金切声。
固定された長椅子に挟まれ、苦痛に呻く者。
立ち上がれず、聖者に助けを求める泣き声。
無数の悲鳴と怒号が重なり、高い天井に反響し、礼拝堂内の恐慌を増幅した。
双頭狼は、捕食された男女の怨念を頭部に焼き付け、生者を睨めつける。口許が伸び、そこだけ魔獣本来の姿に戻った。
信者を誘導する聖職者が、背後から頭を丸ごと咥えられ、首を咬み切られる。周囲の信者が息を呑んで立ち竦んだ。
魔獣が聖職者の頭部を通路に吐き捨てる。
一瞬の間を置いて悲鳴が上がり、人々の群が形振り構わず逃げ惑う。
魔獣の尾が手当たり次第に牙を剥き、力なき民の無防備な身体に毒を打ち込む。
……食べる為じゃなくて、殺す為に侵入したのか。
女の頭部が逃げ遅れた老人を食い殺し、笑いの形に歪む。
戦う術も身を守る力も持たないキルクルス教徒は、熟れた果物が踏み潰されるように何の抵抗もなく命を摘み取られる。
魔装兵ルベルは、人の群に紛れてシストスを見失った。
女の艶やかな黒髪と深緑の瞳に見覚えがあるような気がしたが、憤怒と狂気を含んだ笑みに歪み、獣の口に変わり果てた姿では、思い出せそうになかった。
……それより、パジョーモク議員とシストスだ。
聖職者と教会ボランティアたちは、人々を誘導する端から殺されたが、パジョーモク議員はマイクを離さず、避難を呼掛け続ける。
声は聞こえても、通路と長椅子に人が詰まって前方が見えず、【跳躍】で接近できない。
双頭狼がまた一人、信者を屠り、長椅子を蹴って通路に降り立った。人の群が左右の長椅子に流れ、魔獣が手を繋いで立ち竦む少年少女と正面から向き合う。
尾の頭部が妙に大きい。
鎌首をもたげた金属光沢のある毒蛇の額で赤い宝石が輝く。魔力を宿した結晶の分、蛇の頭部が大きいのだ。
……あれ、ひょっとして【魔道士の涙】か?
腐肉などを苗床にこの世へ迷い出たのではなく、ネモラリス人のゲリラが、アーテル人への恨みを呑んだ【涙】を扉に召喚し、故意に放った可能性がある。
それならば、ルフス光跡教会周辺でのみ活動したことも、まだ日がある時間にも関わらず、礼拝中に侵入し、腹を満たす為でなく、キルクルス教徒を殺す為に暴れる理由も納得できる。
召喚者が【渡る白鳥】学派の術で行動を強制したのだろう。
「司祭様、逃げて下さい!」
人が減った通路をレフレクシオ司祭が魔獣に向かって走る。パジョーモク議員がマイクで叫ぶが、司祭は足を止めなかった。
他に生きて動く聖職者の姿はない。
立派な椅子の脇で、シストスが腰を抜かして放心するのが見えた。豪華な衣の聖職者が見えないのは、信者を見捨てて逃げたからだろう。
パジョーモク議員がマイクを放り出し、マイクスタンドを掴んでレフレクシオ司祭の後を追う。
「まさか、戦う気か?」
ルベルは議員の無謀さに驚き、ラズートチク少尉を窺う。
上官は通路に向かう足を止め、少年少女の方を指差した。
「見ろ。【消魔の石盤】だ。接近しては【跳躍】できん」
「あッ!」
人が減って通路を見渡せるようになった。血に塗れた人体や落し物が散らばる床で、力ある言葉が見え隠れする。
「どうしましょうか?」
「もう忘れたのか? 多少、周囲を巻き込んでも構わん。パジョーモク議員とシストスを確保せよ」
ルベルは、先程の命令を【跳躍】に巻き込むと解釈したのだが、改めて命じられて愕然とした。
……そっか。これは……戦争なんだ。
「諸の力を束ね 光矧ぎ 弓弦を鳴らし 魔を祓え」
ルベルの動揺を他所に、ラズートチク少尉が【光の矢】を放った。術が発動し、魔力で作り出された矢が魔獣の腰に傷を与えて消える。
傷を負った魔獣は振り向いたが、こちらを一瞥しただけですぐ司祭たちに向き直った。
「ここからならば大丈夫だな」
少尉はジャケットの内ポケットに手を入れ、動きを止めた。
動ける信者は礼拝堂を脱出したが、通路や長椅子にはかなりの負傷者や恐怖で動けなくなった者が取り残され、助けを求めて泣き叫ぶ。
「君たち! 奥の扉から逃げなさい!」
レフレクシオ司祭が、通路に取り残された少年の肩を叩く。もう一方の手には銀の燭台があった。
手を繋いだ少年少女が、驚いた顔で振り向いた瞬間、長椅子の列から飛び出した人物が司祭に体当たりした。不意を打たれたレフレクシオ司祭が通路に倒れ、燭台が転がる。
体当たりした人物も、勢い余って司祭と共に倒れたが、素早く上体を起こした。その手で血に汚れたナイフが鈍く光った。
レフレクシオ司祭は、通路に倒れたまま、脇腹を抑えて呻く。
純白の衣に赤い染みがじわりと広がった。
☆ルフス光跡教会周辺でのみ活動……「870.要人暗殺事件」「0998.デートのフリ」「1069.双頭狼の噂話」参照
☆【渡る白鳥】学派の術で行動を強制……「147.霊性の鳩の本」「232.過剰なノルマ」「272.宿舎での活動」「304.都市部の荒廃」「486.急造の捕獲隊」「507.情報の過疎地」「649.口止めの魔法」「672.南の国の古語」参照




