1074.侵入した怨念
砕け散ったステンドグラスが礼拝堂に降り注ぐ。
一瞬の静寂は、信者の悲鳴で破られた。
説教壇のレフレクシオ司祭が振り向き、大司教が立派な椅子から腰を浮かす。
司祭の一人が銀のハンドベルを強く鳴らした。
クラウストラが薄く笑う。
「力なき民が【魔力の水晶】もなしに振っても【退魔の鐘】は発動せんぞ」
ステンドグラスを破って侵入した灰色の獣が、説教壇に着地し、灯火台のランプを叩き落とした。砕けたランプから油が広がり、黒煙を上げる。レフレクシオ司祭は聖典を踏む獣に向き直ったが、魅入られたように動かなかった。
別の司祭が、銀のハンドベル【退魔の鐘】を鳴らしながら、大声で指示を出す。
「みなさん、落ち着いて、扉に近い方から順序良く避難して下さい」
警備員が我に返り、大扉を全開にする。
立ち見の信徒が口々に叫びながら、まだ暑い夕方の街へ駆け出した。会衆席の信徒がベンチを乗り越え、大扉に殺到する。
あちこちで悲鳴や怒号が上がり、ほんの数秒で礼拝堂は大混乱に陥った。
「みなさん、落ち着いて! 前の人を押さないで! 冷静に避難して下さい!」
司会のパジョーモク議員がマイクで繰り返し叫ぶが、逃げ惑う人々の耳には入らない。
「ポーチカさん……?」
ロークは呆然と呟いた。
灰色の獣の頭部は人間の男女がひとつずつ。尾は銀色の蛇で、鎌首をもたげて炎のような舌を出し、レフレクシオ司祭を威嚇した。
双頭狼の四つの眼が、キルクルス教徒の群を睨めつける。
男の顔が獣の咆哮を上げ、会衆を誘導する司祭に躍り掛かった。大きく開いた人間の口から狼の口が伸び、背後から首を噛み千切る。
悲鳴を上げる間もなく倒れた司祭に構わず、身を翻して聖歌隊に襲い掛かった。
ロークの居る辺りは高齢者が多く、ベンチを乗り越えられない人々が詰まってどこにも行けない。
「聖者様!」
「お救い下さい!」
腰を抜かした信徒は泣き叫び、避難する者の足に縋る障害物となった。助けを求める皺深い手を振り解き、蹴飛ばして逃れる者も居る。
椅子から転げ落ちた老人は、次々と踏み台にされた。
双頭狼は、聖歌隊五、六人を瞬く間に血の海に沈め、救助に向かった警備員に蛇の牙を立てた。
ポーチカの顔も口許を血に染め、人の声ではなく、狼の吠え声を上げる。聖歌隊が牙に掛かった仲間を見捨てて逃げ、目の前から動く者が居なくなると、双頭狼は逃げ遅れた信徒を次々と牙に掛けた。
この個体の目的は、捕食ではなく、殺戮らしい。戦う力も、身を守る力も持たないキルクルス教徒の群を紙細工でも壊すように薙ぎ倒す。
「どうする?」
「えっ?」
クラウストラの問いの意味がわからず、彼女の落ち着き払った顔をまじまじと見る。
「この場に留まって見届けるか、それとも【跳躍】で逃げるか」
「えっと……」
ロークは即答できなかった。
留まると言えば、クラウストラは守ってくれるのか。
迷う間にも、血飛沫を上げる怨念の嵐が近付いて来る。
押し合う人の群があちこちで倒れ、悲鳴と助けを求める叫びが上がる。
クラウストラはその様子を冷徹に録画する。キルクルス教徒を助ける気は毛頭ないらしい。タブレット端末の画面越しに見える光景は、どこか他人事のようで現実感がなかった。
この魔獣は人の頭部を持つが、霊視力で二人の怨念が視えるだけで、本体は飽くまでも双頭狼だ。人間を襲う口は狼の形に戻り、無防備な肌を肉を骨を易々と食い千切る。
灰色の獣はキルクルス教徒を次々と屠りながら、まっすぐロークたちに近付いて来る。
クラウストラは、片手をタブレット端末から離して堂々と呪文を唱えた。ロークの知らない呪文だ。詠唱を終えた彼女が顔を顰めた。
「どうしたんですか?」
「どうやら【消魔の石盤】か何かがあるらしいな。【真水の壁】が打消された」
クラウストラが表情を消して応えた。
ロークは、驚愕と恐怖で声も出ない。ポケットを探ったが、ハンカチしかなかった。
「魔法の品を無効化する程の力はないようだ。【化粧】の首飾りの効力は失われておらん。護符の類は持って来たか?」
「すみません。【魔除け】はありますけど【守りの手袋】は宿です」
「そうか。今更、確認を怠ったことを悔やんでも仕方がない。移動しよう。効果範囲はそう広くない」
クラウストラは端末をバッグに片付け、ロークの手を引いた。彼女の手のぬくもりで冷静さを取り戻し、自分でも意外な程しっかりした足取りでついてゆく。
会衆が放り出した日傘や荷物が散乱し、足を取られて転倒した人々が踏みつけにされる。
腰を抜かした者たちがベンチに取り残され、泣きながら聖者の名を叫ぶ。双頭狼がその喉を食い破って黙らせ、ベンチを蹴って通路に降り立った。
進路を塞がれた人々が左右のベンチに分かれ、ロークとクラウストラの前が空いた。
彼女がロークの腕を掴み、早口に呪文を唱える。何度も耳にした【跳躍】だ。詠唱が終わっても、景色が変わらない。
「ここもダメか」
双頭狼が通路に倒れた者の腕を喰らい、ベンチへ逃れようとする者たちに蛇の牙が手当たり次第に毒を打ち込む。
ポーチカの白い肌は血で汚れ、その眼が薄笑いを浮かべて戦場さながらの礼拝堂内を見回す。
……これが、ポーチカさんの願い? それとも、憂撃隊の?
男の頭部が獣の口で人肉を喰らい、舌舐めずりする。
「予想以上にたくさん設置されていたのだな」
「何がです?」
「礼拝堂内の【消魔の石盤】だ」
クラウストラが足下を指差す。通路の敷石はざっと見たところ、五枚に一枚くらいの割合で、装飾に紛れて力ある言葉が刻まれていた。
一枚当たりの効果範囲はわからない。
クラウストラは、双頭狼の男と視線を合わせたままゆっくり後退る。
ロークもそれに倣い、ポーチカと目を合わせた。
☆ポーチカさん……「923.人捜しの少年」~「925.薄汚れた教団」参照
☆灰色の獣の頭部は人間の男女がひとつずつ。尾は銀色の蛇……「1013.噴き出す不満」「1065.海賊版のCD」参照
☆【真水の壁】……「487.森の作戦会議」「488.敵軍との交戦」「499.動画ニュース」「608.四眼狼の始末」参照
☆ポーチカさんの願い? それとも、憂撃隊の?……「0952.復讐に歩く涙」「1025.二人の犠牲者」参照




