1073.立ち止まろう
クラウストラが、タブレット端末をつついて地図を表示させる。聖典の写真らしく、ページの端に影があった。
「生物兵器“三界の魔物”、最後にして最大最古の一頭は、そのあまりの強さ故に駆除できず、このラキュス湖北部の地に封印されたのです」
ロークはレフレクシオ司祭の解説で、暗記させられた地形を思い起こした。
これも、この辺りの伝承と同じだ。
信仰とは無関係に子々孫々受継がれた戦いの記憶。湖北七王国、特に封印の地ムルティフローラ王国にとっては、建国の由来でもある。
「封印の年を元年として、新しい時代が始まりました。現在も使用される印暦は、今年で二一九二年。三界の魔物は未だに存在し、封印が破られてしまいますと、世界は再び滅びの脅威に晒されます」
会衆席の空気が張り詰める。
……おいおい、不安煽ってどうする気だよ?
ロークは、着席した大司教を見たが、やさしい微笑を貼付けた顔で会衆を見守るだけだ。
レフレクシオ司祭の解説が続く。
「聖者キルクルス・ラクテウス様は、三界の魔物が封印される前にアルトン・ガザ大陸の北部、現在のバンクシア共和国でお生まれになり、三界の魔物の惨禍を再び招かぬよう、生涯を懸けて人々に呼掛けて下さいました」
会衆の訝る気配がひしひしと肌に感じられた。
「聖典の“かくて、魔術に依る国々は滅び、新たなる光の国興る”この一節は、光跡記、つまり、聖者様のお言葉を耳にした者たちが書き残した記録です」
これも、キルクルス教徒なら常識として、誰もが覚えなければならない基礎知識だ。
わざわざバンクシア共和国の大聖堂からこんな辺境の地……三界の魔物のお膝元に来てまで、エリート司祭が言うべきことだとは思えない。
……三界の魔物の近所だから信仰が歪んで、ロクに基礎知識もないと思われてんのかな?
レフレクシオ司祭は、会衆を見回して口調を和らげた。
「二千年以上に亘る先人の弛まぬ努力によって、魔法を使わない技術、科学が発展しました。みなさんも、日々インターネットをお使いかと存じます」
クラウストラの隣のおばさんが、司会者の注意を無視してタブレット端末をつつく少女に眉を顰める。内容が聖典だと気付き、頬を緩めて前を向いた。
「みなさんは、インターネット……とりわけ、SNSで飛び交うたくさんの言葉をどの程度、信じていらっしゃいますか?」
レフレクシオ司祭の唐突な問いに、会衆は隣と顔を見合わせた。
「遠い国のほんの一例を一般化した話、飲食店で他の席から漏れ聞こえた会話、どこかの大学教授など権威から聞いたと言う話、友達の友達の話……伝聞であると前置きして語られる尤もらしい話に肯定を与え、拡散する時、どの程度それを信じて行動するのでしょう?」
礼拝堂に気マズい空気が流れる。
「それがデマだとわかった時、肯定や拡散を取り消しますか?」
ロークは、情報収集の為にSNSを閲覧するが、書き込みなどはしない。日々膨大な言葉が重ねられ、検索でひとつの話題を掘り下げるのも一苦労だ。
……憂撃隊のテロの件も、病院職員とか、友達の友達とか、取引先の人とか、身近そうでいて微妙に遠い人の話、結構見たなぁ。
「デマや迷信が時を置かずに広まるのは、尤もらしい言葉で綴られた情報を何となく信じ、有益な話を伝えたいと思う親切で善良な人が多いからです」
会衆席の困惑に反発や反省、羞恥など様々な色が加わる。
「よさそうな話に触れた時、その雰囲気に呑まれて即反応せず、一呼吸置いて、確認や検証の光を当てることを忘れないで下さい。特に伝聞や噂の類はそうです。“誰それさんがどこかの司祭や大学教授から聞いた”などと、権威で飾り付けられた言葉に惑わされないようにお気を付け下さい」
……割とまともなコト言うんだな。
だが、SNS上ではレフレクシオ司祭の言葉の端々が独り歩きする。
星の標を恐れ、言い回しを巧妙に変えるので、インターネット初心者のロークはなかなか全容を掴めなかった。
「キレイな言葉や権威で飾り付けられた包みを外し、その言葉が示す内容を知の灯で照らして、それが本当なのか、情報源や状況の確認、法律や正確な専門知識に照らし合わせて検証し、自分の頭を使ってよく考えて下さい」
「でも司祭様、そんな何でもかんでも、専門知識持ってる人なんて居ませんよ」
とうとう会衆席から疑問が飛んだ。
レフレクシオ司祭は、口を挟んだ信徒にイヤな顔ひとつせず、鷹揚な笑みで応えた。
「はい。私も、不勉強なものですから、すべての専門知識は持っておりません。ただ、専門知識を持たない我々でも、立ち止まって考えることはできます」
信徒の群が首を縦に動かす。
ロークは、レフレクシオ司祭が何を言うとするのか気付いて、血の気が引いた。だが、止められる筈もなく、成り行きを見守るしかない。
「聖典の言葉もまた、同じです。光跡記は、聖者様ご自身が書き記した言葉ではなく、弟子など深く関わった人々が残した伝聞の記録です」
会衆が息を呑み、時が停まったように礼拝堂が静まり返る。
大司教たちも動かない。
彼らがレフレクシオ司祭を止めないのは、これが大聖堂の公式見解で、辺境の一教会に過ぎないルフス光跡教会は、意見できる立場にないと諦めたからか。それとも、エリート司祭の言葉に間違いないと受け容れたからか。
「先程、お読みいただいた聖典の箇所“かくて、魔術に依る国々は滅び、新たなる光の国興る”これもまた、弟子マクアエリウムが書き残した伝聞で、神学者の間でも解釈が分かれております」
その論争については、ルフス神学校でも少し習った。
但しそれは、数百年前にこの地を訪れた宣教師たちの間で諍いが起こった、と言う歴史的な記録としてだ。
魔法使いが中心のラキュス湖周辺地域で「かくて、魔術に依る国々は滅び、新たなる光の国興る」などと言えば、地元民の反感を買うのは目に見える。
……でも、ここは封印の地に近いから、当時の記録がいっぱい残ってるし、ムルティフローラには生き証人も居るらしいし。
宣教師たちの間で論争を起こしたこの一節は、ラキュス湖周辺住民には「アルトン・ガザ大陸の歴史を記したもの」と解釈され、他の地域と違い、魔法使いからは特に反発がなかった、と神学校の教科書に書いてあった。
「一部の人々は歴史上度々、光跡記のこの記述を根拠に魔法使いを迫害し、その国を滅ぼそうとしましたが、それは異端の考えです」
……言っちゃったよ、この人!
大聖堂から派遣された若きエリート司祭レフレクシオは、ロークの心配を他所に堂々と続ける。
「おうちに帰られてから、聖典を隅々までご覧下さい。“魔術はすべて悪しき業だから、それを使う者を殺しなさい”などとは、一行も書かれておりません」
信者たちが手許の薄い聖典に目を向け、恐る恐る大司教を窺った。アーテル共和国内に於ける最高位の聖職者は、微笑の仮面を外さず、無言で信徒の群を見守る。
「ご一緒にお考え下さい。聖者様は、魔術が人間同士の戦争に利用されたことに心を痛めておられました。魔術を戦争利用した結果、三界の魔物の惨禍が世界を闇で覆いました。聖者様ご自身が直接、悪しき業として禁じられたのは、戦争に利用され、厄を招いた術だけなのです」
レフレクシオ司祭の話は、ラクエウス議員が繰り返し語り、動画で世界に向けて発信したのと同じ内容だった。だが、リストヴァー自治区出身の国会議員は、世俗の人だ。大聖堂から派遣されたエリート聖職者とは言葉の重みが違う。
「聖者様が生涯を懸けて説かれたのは、“魔術を戦争に利用しない平和な世界”です。その聖者様が、“魔法を使う人々と彼らの国を滅ぼしなさい”と言う意味で“かくて、魔術に依る国々は滅び、新たなる光の国興る”などとおっしゃるでしょうか?」
信徒の硬直が解け、微かに首を横に動かす。
……言ってるコトは正しいんだろうけど、これって、星の標に聞かれたらヤバいよな。
礼拝に参列した信徒たちはSNSでは警戒し、わかり難い形でしか情報発信しなかったが、星の標の団員もキルクルス教徒だ。彼らが礼拝に来ても不思議はない。いや、原理主義を標榜する彼らが、来ない筈がない。
「歴史上、聖典のこの一節は、戦争やテロ、或いは植民地支配など魔法使いへの弾圧の口実にされてきました。しかし、それは聖者様の」
ガラスの砕ける激しい音が、レフレクシオ司祭の熱弁を掻き消した。
☆三界の魔物(中略)ラキュス湖北部の地に封印された……「234.老議員の休日」「239.間接的な報道」「483.惑わされぬ眼」参照
☆封印の年を元年として、新しい時代が始まりました……「118.ひとりぼっち」「239.間接的な報道」参照
☆聖典の“かくて、魔術に依る国々は滅び、新たなる光の国興る”この一節は、光跡記……「557.仕立屋の客人」参照
☆ロークは、情報収集の為にSNSを閲覧……「0965.ネットで連絡」参照
☆日々膨大な言葉が重ねられ、検索でひとつの話題を掘り下げるのも一苦労……「0968.黒い都市伝説」参照
☆ラクエウス議員が繰り返し語り、動画で世界に向けて発信……繰り返し語り「861.動かぬ証拠群」「0944.聖典の取寄せ」、動画「858.正しい教えを」~「861.動かぬ証拠群」参照
※ ついでに言うと、ファーキル「325.情報を集める」、姉のクフシーンカ「557.仕立屋の客人」「629.自治区の号外」も同様。
☆星の標に聞かれたらヤバい……「293.テロの実行者」「1013.噴き出す不満」参照
☆礼拝で聞いた信徒たちはSNSでは警戒し、わかり難い形でしか情報発信しなかった……「1069.双頭狼の噂話」参照




