1063.思考の切替え
ロークは息を止めて、慎重に薬匙を動かした。
うっかりくしゃみでもしようものなら、貴重な素材が飛び散ってしまう。
……そっか。マスクがあればいいんだよな。
呪符屋の店主ゲンティウスは、こぼしても【操水】で掻き集めて分離すればいいから、この辺りのことに無頓着なのだろう。
絶光蝶の鱗粉を指示された分量きっちり、無事に広口のガラス瓶に入れ、ホッと息を吐いた。
「ロークさん、お客さんです」
スキーヌムが作業部屋に顔を出すと、ゲンティウス店長が溶液を掻き混ぜる手を止めずに聞いた。
「買物や運び屋じゃねぇのか?」
「ロークさん個人にご用の方です。以前、獅子屋さんでお会いした湖の民の若い女性です」
「湖の民? アウェッラーナさんかな?」
……知らない人が聞いたら誤解しそうな言い方すんなよな。
おいしいと評判の店で会った若い女性が、仕事中に勤務先を訪ねて来た……噂好きな人がそこだけ聞けば、下衆な勘繰りをされて、事実とは全く違う話を地下街中に広められそうな状況だ。
「はい。そう名乗られました」
「聞いてたんなら、先に呼称を言ってやれよ」
店主に苦笑され、スキーヌムは小さくなって詫を口にした。
……まだ、こんな簡単な取次もできないなんてな。
「行っていいぞ」
店主のゲンティウスは、ロークが許しを乞うより先に顎をしゃくり、カウンターに出るよう促してくれた。
「ロークさん、お久し振りです。お元気でしたか?」
「えぇ、お陰様で。そちらはどうでした?」
アウェッラーナの他には客の姿がなかった。スキーヌムはまた断られたらしく、お茶の用意をせず、俯いてロークの隣に立つ。
「プラエテルミッサのみんなは元気ですよ。今、ネモラリス島の北東にある小さい村に居るんですけどね」
薬師アウェッラーナは、運び屋フィアールカたちにも伝えて欲しい、と前置きして辺境の窮状を語った。
ロークたちが集めた情報は、葬儀屋アゴーニとピアノ奏者スニェーグを介して、移動放送局となったプラエテルミッサにちゃんと伝わったと言う。
情報は、国営放送アナウンサーのジョールチとFMクレーヴェルのDJレーフ、ソルニャーク隊長とクルィーロたちの父パドールリクが中心となって精査し、幾つかは既に放送済みだ。
「電池もないんですか……産地が気にならないんなら、安いお店、知ってますけど……」
「教えてもらえますか? 買うかどうかは、村の人に任せるんで」
「原産国、アーテル、ラニスタ、バルバツムくらいなモンですけどね」
ロークが、よく安売りをする電器屋の場所を説明すると、アウェッラーナは熱心にメモを取った。
「そんなワケで、もし、村の人が呪符を買いに来ても、私が薬師だって言うの、内緒にして下さい」
「勿論です」
「何故ですか?」
ロークの返事にスキーヌムの疑問が重なり、アウェッラーナが面食らった顔で質問者を見る。
何故か、ロークの方が恥ずかしくなった。
「急いでるんですよね? 俺が説明しますから、行って下さい。すみません」
「……お願いします。帰りにまた寄りますんで、よろしくお願いします。色々教えて下さってありがとうございました」
アウェッラーナが郭公の巣に行くと言い残し、何とも言えない顔で出て行く。スキーヌムは呆然と見送り、緑髪が見えなくなるとロークを見た。
「元々病院がなくて、巡回診療も来なくなって困ってるとこで、魔法使いの薬師だって名乗ったらどうなるか、わかりますか?」
「勿論、村の方々は助かって、喜んで下さいますよね?」
スキーヌムは即答し、それの何が問題なのかと首を傾げた。
「彼女は、教会の奉仕活動で無医村の医療支援をしてるワケじゃありません」
「えっ? でも、村の方々はお困りなんですよね?」
スキーヌムはずっと、神学校以外の世間を知らなかった。
礼拝に訪れる人々やニュースで接する外界の僅かな情報も、キルクルス教の教義や、聖職者として信者に示すべき模範を通してしか見て来なかった。
……半年やそこらでフィルタが外れるワケないか。
ロークは諦めて説明した。
「彼女は、空襲のせいで生き別れになったご家族を捜してるんです。その間の生活費や、捜索費用も稼がなくちゃいけません。移動と生活の場はトラックです。湖上封鎖で燃料の輸入が減って、大幅に値上げされました」
「あっ……」
「タダや格安じゃダメなのは、わかりますね?」
スキーヌムはこくりと頷いた。
「じゃあ、薬師の身分を明かせば、どこにも行かないで欲しいって引き留められて、最悪、軟禁されるの、想像できますか?」
「まさか、いくら何でもそんなコトは……」
スキーヌムが唇を引き攣らせる。
信仰エリートとして世俗から隔離されて育ち、宗教家としての思考の癖を商売人に切替えるのが難しいのは理解できるが、呪符屋の客やゲンティウス店長にあまり迷惑を掛けるようなら、もう少し何とかしなくてはならないだろう。
「実際、ラクリマリスのドーシチ市では、何カ月も偉い人のお屋敷に留め置かれて、大量の魔法薬を作らされました。俺も地虫をすり潰すのとか手伝って、手の皮が剥けました」
「そんな……」
スキーヌムは信じられないものを見る目をロークに向けた。
「ドーシチ市には、自前の薬草園がいっぱいあって、隣の市に材料を持って行けば、そこの薬師さんに作ってもらえますし、病院もありましたけど、そんなだったんです」
「その街の人たち、欲張り過ぎじゃありませんか?」
「欲張りだと思いますか? 命掛かってるのに? 何もなくて、文字通りに“死ぬ程”困ってる小さい村の人が、一回薬作っただけで、すんなり行かせてくれると思いますか?」
スキーヌムは、息を呑んで固まった。数秒置いて細く息を吐きながら、微かに首を振って目を伏せる。視線の先に紙片を握った手があった。
☆スキーヌムはずっと、神学校以外の世間を知らなかった……「743.真面目な学友」「744.露骨な階層化」「762.転校生の評判」~「766.熱狂する民衆」参照
☆彼女は、空襲のせいで生き別れになったご家族を捜してる……「563.それぞれの道」「571.宝石を分ける」「572.別れ難い人々」「610.FM局を包囲」「697.早朝の商店街」「698.手掛かりの人」「748.異国での捜索」「749.身の置き場は」「759.外からの報道」「824.魚製品の工場」参照
※ 再会できたのは、船長だった兄アビエース一人だけ……「825.たった一人で」~「828.みんなの紹介」参照
☆どこにも行かないで欲しいって引き留められ……「235.薬師は居ない」~「239.間接的な報道」、「264.理由を語る者」参照
☆ラクリマリスのドーシチ市では、何カ月も偉い人のお屋敷に留め置かれて、大量の魔法薬を作らされました……「230.組合長の屋敷」~「232.過剰なノルマ」、「245.膨大な作業量」参照
☆俺も地虫をすり潰すのとか手伝って、手の皮が剥けました……「250.薬を作る人々」「256.兄妹水入らず」「262.薄紅の花の下」「266.初めての授業」参照




