1062.取り返せる事
それから少しして、メーラが両手に水桶を持って戻った。
「お待たせしましたー! 遅くなってすみません! ウチ、桶が一個しかなくって、スモークウァちゃんちまで借りに行ってたんです」
「そうだったんですか。お疲れ様です。そこに置いて下さい」
呪医セプテントリオーは、少女が桶を置くのを待たずに【操水】を唱えた。熱と圧力を加え、沸点以上に加温した後、急速冷却した。
人肌にまで冷ました水で【癒しの水】を掛ける。
「血は血に 肉は肉に 骨は骨に あるべき姿に立ち返れ
損なわれし身の内も外も やさしき水巡る
生命の水脈を全き道に あるべき姿に立ち返れ」
完全に傷んだ組織を少しずつ取り除き、水から屑籠に排出させる。
咬傷箇所は、右足のふくらはぎのやや足首よりの位置だが、壊死が進行したせいで結局、膝のすぐ下辺りから踵付近に掛けて、ごっそり腐肉を取る羽目になった。
辛うじて生き残った組織の再生を試みたが、案の定、露出した骨を囲んで傷が塞がっただけに終わる。
……やはり、完全に腐敗した欠損部位の復元は【有翼の蜥蜴】学派でなければ。
腐肉を全て排出し、水を消毒して桶に戻す。
少女の目は桶と兄の右足と、呪医の顔を忙しなく往復したが、舌が空回りするだけで声は出なかった。
「水を外に流してもらっていいですか?」
「えっ、あ、あのっ、ホネ? あ、足って言うか、その、ホ、ホネの、えっと、お兄ちゃん?」
少女の顔が引き攣り、口許は笑いに似た形に歪むが、緑の目からは大粒の涙がこぼれ落ちる。
脛側は何ともないが、ふくらはぎは丸ごとなくなってしまった。
「壊死した組織を取り除いて、傷を塞ぎました。壊死の進行を止めましたので、当面は命の心配がなくなりました」
「で、でも、呪医、ホ、ホネが、お兄ちゃん、ホネは?」
メーラは譫言のように繰り返す。
患者は、妹から痛ましげに目を逸らし、母親が娘を抱き締めた。
「呪医、息子の命を助けて下さってありがとうございました」
「こちらは、彼に処理してもらいます。それでは、また明日」
呪医は、【操水】で手桶一杯分だけ水を起ち上げると、屑籠の中身を全て水に混ぜた。
メーラの瞳が焦点を結ぶ。
「呪医、明日……明日、続きを治して下さるんですよね?」
セプテントリオーは応えず、腐肉を混ぜた水を連れて外へ出た。
葬儀屋アゴーニに処理を頼み、村長に向き直る。
「彼が最も重傷でした。……何故、後回しに」
「す、すみません。しかし、私が知る限り、あんなに酷くなかったんですよ。まさか、こんなことになっていたなんて、知らなくて」
セプテントリオーが、しどろもどろに弁解する村長に尚も言おうとしたところ、肩を叩かれた。
振り向くと、アゴーニが肩に手を置いたまま首を横に振る。
「村長さんを責めたって、患者さんが良くなるモンじゃねぇんだろ?」
「最初に診ていれば、少しでも壊死の範囲が小さく済んだのに。半日も……こんな……ッ!」
患者の一部が【導く白蝶】の青白い炎に包まれる。我知らず、声が震えた。
村長が一歩退がり、半ば叫ぶように宣言する。
「彼の入院費用、私がお出しします!」
「治らなかったのかい?」
アゴーニに意外そうな目を向けられ、セプテントリオーは、【導く白蝶】の炎で灰になる腐肉を見詰めて、苦い思いと共に言葉を吐き出した。
「この部分の復元は、私の【青き片翼】では無理なんです。【有翼の蜥蜴】でなければ……!」
それ以上続ければ、呪詛になりそうな気がした。歯を食いしばり、拳を握って言葉を押し留める。
葬儀屋アゴーニはもう一度、呪医の肩を軽く叩いて言った。
「過ぎたコトうだうだ言っても始まんねぇ。患者さんはまだ生きてて、大きい病院に入院できりゃ何とかなンだろ? 上等じゃねぇか。まだ、取り返しがつくんだからよ」
呪医セプテントリオーは、葬儀屋アゴーニをまじまじと見た。淋しげな微笑を湛えた彼は、ずっと取り返しがつかなくなった人々を見送り続けて来た。
葬儀屋である限り、この先もずっと、たくさんの死と向き合い続ける。
彼が何故、【導く白蝶】学派を選んだのか不明だが、多くの死者を葬り続けたアゴーニの言葉は胸に深く染みた。
「村長さんは立場上、あんまり一軒に肩入れできねぇんだよな?」
「は、はい。その、不公平が生じますと、後で何かと問題になりますので」
助かったとばかりに食いつき、首振り人形のように頷く。
「今回の分は一旦、村長さんが全部立替えて、本人が元気になってから、耳揃えてきっちり返してもらやぁ角も立たねぇだろ」
村長は一瞬、渋るそぶりを見せたが、ひとつ息を吐いて諦め顔で同意した。
校庭に停めた移動放送局のトラックに近付くと、風に乗ってパンの焼ける香ばしい匂いが届き、ふっと肩の力が抜けた。
「呪医、お疲れ様です。晩ごはん、丁度できたとこですよ」
レノ店長の屈託のない笑顔に迎えられ、頬が緩む。
「ありがとうございます。講演の方は上手くゆきましたか?」
今日は朝から、パン屋のレノ店長、元会社員のパドールリク、音響機器工場の工員クルィーロ、トラック運転手のメドヴェージが村で唯一の学校へ行き、湖の民の子供たちを前にそれぞれの職業について語った。
「うーん……フツーのコト喋っただけなんで、あんなの湖の民の子たちが聞いても、将来役に立つかわかんないですけど……」
「何を話したんですか?」
「何ってフツーにパン屋の仕事を……あの子たち、パン焼き窯なんて一生、使わないと思いますけどね」
「坊主が将来、パン屋になりてぇって口走ったくらいだ。充分、為になったともさ」
メドヴェージがやさしい笑顔を向けると、少年兵モーフは耳まで赤くなって下を向いた。ソルニャーク隊長も口許を綻ばせる。
「四眼狼の群を駆除するか、遠くに追い払うまで、危なくて出られませんので、明日も学校で講演することになりました」
アナウンサーのジョールチが言うと、DJレーフが演者を指折り数えた。
「明日は、俺と隊長さんとアビエースさん。……アゴーニさんもいいですか?」
「おう、子供らの為に一肌脱いでやンよ」
薬師アウェッラーナは、葬儀屋アゴーニとは別に村人を数人連れて買出しに行き、そちらも首尾よく行ったと言う。
彼女の行き先は、ランテルナ島の地下街チェルノクニージニクで、宿屋に場所を借り、魔法薬も作ってきた。
「お店で、久し振りにロークさんと会って色々話せました。元気そうでしたよ。みなさんによろしくお伝え下さいって」
……そう言えば、随分長い間、会っていないな。
呪医セプテントリオーは、彼がインターネットでアミトスチグマに送る情報や近況は何度も目にしたが、直接顔を合わせたのがいつだったか、思い出せなかった。
☆講演/村で唯一の学校へ行き、湖の民の子供たちを前にそれぞれの職業について語った……「1052.校長の頼み事」参照
☆彼女の行き先は、ランテルナ島の地下街チェルノクニージニク……「1051.買い出し部隊」参照




