1058.ワクチン不足
「それで、その村の方々は……」
葬儀屋アゴーニは、一人でアミトスチグマ王国の支援者宅に来た。主のマリャーナが聞くと、アゴーニはあっけらかんとして言う。
「ここの下町の市場に置いて来たぞ」
「えぇッ?」
呪医セプテントリオーは、アゴーニの大雑把な対応に驚きを漏らした。まさか、全く土地勘がない異国の大都会に放置するとは思わなかった。
葬儀屋が不思議そうに呪医を見る。
「村の連中はみんな俺らの同族だし、いい歳こいたおっさんばっかだ。お遣い終わりゃ自分で【跳躍】して帰らぁな」
「しかし、防壁から出なければ、跳べませんよ?」
「ん? 門から一番近くてわかりやすい市場に連れてったんだ。あれで迷子ンなるようじゃ、どこにも行けねぇぞ?」
「しかし……」
「下手にここの場所を教えちまっちゃ、後で面倒なコトになりかねんからな」
セプテントリオーはそう言われてやっと、マリャーナがアミトスチグマの経済界で大きな力を持つことを思い出した。彼女は、国際的に活動する大手総合商社のパルンビナ株式会社で役員を務める。
アゴーニは、村人がカーメンシク市の企業や役所、議員などに医療や物資不足の窮状を訴えても、動かなかったと言った。
余裕のない国内の有力者が無理なら、藁にも縋る思いで、余裕がある国の有力者であるマリャーナ宅に陳情者が押し掛けかねない。
「お気遣い、恐れ入ります」
「なぁに、いっつも世話ンなりっ放しなんだ。これ以上、迷惑掛けちゃ罰が当たらぁな。……で、これ、ジョールチさんとパドールリクさんと隊長さんがまとめた奴だ」
アゴーニが、卓上に大判封筒をひとつ出した。マリャーナが受取って中身を改める。クリップで束ねた一番上は、ジョールチが書いた目次だ。
「まだ、村ふたつしか行ってねぇから、詳しいこたぁわからんが、街の連中に売り惜しみされて大分、参ってる。電池が切れてラジオも聞けねぇ有り様だ」
「新聞はどうなんですか? それも売り惜しみを?」
「そっちは売ってもらえるって言ってたが、何せ紙とインクが品薄な上、戦時特別態勢と来たモンだ」
マリャーナの質問にアゴーニは肩を竦めた。
「工業製品……日用品と、その販売ルートがないのですね」
「薬師のねーちゃんが言うには、ワクチンも全然、足ンねぇらしい」
「昨年、トポリ空港が復旧して、輸入が再開されましたが、何かと制限が多いですからね。足りないのは知っていましたが……」
これ程とはとマリャーナが下唇を噛む。
「流石だな、話が早ぇ」
総合商社の役員は、葬儀屋に微笑を返して問題点を列挙した。
ネモラリス共和国内で、ワクチン製造工場の稼働が激減したこと。
医療産業都市クルブニーカなど、多数の都市が空襲を受け、工場と流通ルートが失われた。
首都クレーヴェルでは、クーデターの戦闘に巻き込まれ、あらゆる分野で企業や商店、工場の稼働率が下がった。
国内の医療者が激減したこと。
特に科学の医療者の被害は甚大で、ネーニア島の生存者は、難民キャンプなど国外へ逃れた者が少なくない。
更に言えば、予防接種は、科学の医師免許がなければ打てない。
セプテントリオーは、呪医としてはベテランだが、科学の医師としては全くの素人で、注射器を扱った経験がなかった。
「弊社は現在、魔道機船でリャビーナの製薬会社にワクチンの原材料を卸していますが、先週、バルバツム連邦の大手製薬会社の工場で問題が発生して、製造ラインが止まってしまったんですよ」
「なんだって?」
アゴーニが目を剥いた。
相変わらず、ネモラリスには情報が入らないようだ。
呪医セプテントリオーは最近、手隙の時間はインターネットのニュースを見るようになり、その記事も読んだばかりだ。
「機械が壊れてワクチン原液に異物が混入し、部品の調達に手間取って、修理がいつ終わるか全く目途が立たないそうなんです」
「異物が発見されたロットも回収されて、弊社も在庫を返品しました。今、世界中で品薄なんですよ」
マリャーナが肩を落とした。
魔法文明国なら、力ある民や湖の民が集落に一人でも居れば、【操水】で浄化できる為、コレラなど、飲料水を介して広がる伝染病が蔓延する心配は少ない。
マラリアなど、蚊が媒介する病気も、力ある民や湖の民なら【耐衝撃】などが掛かった服の着用中は刺されない。
家屋に【結界】、屋外でも【簡易結界】があれば、虫の侵入を防げる。
葬儀屋が恐る恐る聞いた。
「ところで、そいつぁ何の奴だ?」
「麻疹です」
「ワクチンができる前、散々ガキを弔った奴じゃねぇか! 何でよりによってこんな時に……」
長命人種の葬儀屋が頭を抱えた。
マリャーナと呪医セプテントリオーは、気マズい沈黙の中、手分けして移動放送局プラエテルミッサの報告書に目を通した。
「子供たちは学校なんですね」
セプテントリオーは明るい話題をみつけ、少しホッとした。アゴーニが顔を上げる。
「あぁ、昨日は村の子と一緒に普通の授業、今日はジョールチさんたちが講師ンなって特別授業。日延べして、明日も残りの大人が色々喋って、明後日、次の村へ出発だ」
「小中一貫校とありますが、校医は居ないのですか?」
「何せ、ちっせぇ村だかンな。魔獣に襲われて大怪我しても、街の病院まで運ぶのも一苦労なもんで、家で寝てるっつってたぞ」
呪医セプテントリオーはマリャーナを見た。
難民キャンプの医療体制も充分とは言えないが、最近はかなり改善が進んだ。難民支援に積極的な総合商社の役員は、呪医の目を見て頷いた。
「情報不足の不安が大きいようですから、アミトスチグマ版とラクリマリス版の湖南経済新聞を直近一カ月分、十組ご用意します。先に通過した村にも届けて下さいませんか?」
「ありがてぇ」
これで、ネミュス解放軍やネモラリス憂撃隊、星の標が国際社会からどう見られ、ネモラリス共和国政府の立場がどうなったかわかる。
ネミュス解放軍に心が傾いた者たちが、隅々まできちんと目を通す保証はなく、却って反発して悪化する可能性もあるが、それでも、外界の視点を全く知らせないよりはマシだろう。
「アゴーニ、しばらく移動放送局に同行させてもらって構いませんか?」
「俺らは大歓迎だが、いいのかい?」
アゴーニがマリャーナを見る。
「この先ずっとなら、難民キャンプのみなさんが困るかもしれませんが、私には呪医の判断を覆したり、引き留めたりする権限なんてありませんよ」
「ずっとと言うワケでは……そうですね、リャビーナ市に着くまで、ではどうでしょう?」
「俺らも断る理由なんざねぇよ」
話がまとまり、必要なものを【無尽袋】数個に分けて詰める。
中身は古新聞に加え、湖南経済新聞と時流通信社の最新版の配信記事、ラゾールニクやフィアールカたちが集めてファーキル少年がまとめた情報、特別番組「花の約束」のアンケートまとめ、生活雑貨と科学の市販薬だ。
呪医と葬儀屋は急いでネモラリス島に【跳躍】した。
☆トポリ空港が復旧して、輸入が再開……「634.銀行の手続き」「750.魔装兵の休日」参照
☆呪医としてはベテランだが(中略)注射器を扱った経験はない……「739.医薬品もなく」参照




